名木宏之ブログ③ 身内話のついでに

 私家版

 ●別稿『麻雀牌のものがたり』で母親のことに触れ身内話を持ち出したから、ついでに触れておこう。名木家の後裔のためにも。

   *日本のジャズの歴史を書いた古い本(書名を忘れて探せないので確認後明示する)に神田「東亜」が日本最初のジャズ喫茶だということが書いてあり、この店名から『東亜』という音楽出版社が誕生したとも触れられていた。
   *明治末生まれの母が「店が忙しくなって女学校を休学して手伝った」と言い、「近くで昭和大通り(現昭和通り)が建設工事中で煩かった」と言っていたから、大正の終わりから昭和初めには『東亜』が流行っていたことがわかる。関東大震災後に建設が始まった昭和通りが完成したのは昭和3年のことだった。
   *昭和初期を代表する歌手・ボードビリアンの二村定一のヒット曲『神田小唄』 (昭和4年/作詞時雨音羽 作曲佐々紅華)の一番と三番の歌詞に、こうある。彼は客の一人だったから、『東亜』がベースになっている詩であることは言うまでもない。
 1. 肩で風切る学生さんに ジャズが音頭とる神田神田神田  家並み家並みに金文字飾り
本にいわせる神田神田神田……(略) 
   3.ジャズは流れるレコードはまわる 赤い灯影にゃボタンが光る……(略)


   *この店は母の次弟・竹廣豊光(早逝した日本画家で雅号は露光。異端の画家・靉光の親しい仲間だった)が引き継いで画業のかたわら運営したが、露光死亡とともに閉店した。露光は1女・竹廣とよ子(現姓・小田)を遺し、この3歳上の従姉と私、『日本の陶芸家100人』に入る竹廣泰介(露光の弟・美孝の長男)、新劇役者40年の竹廣零二(同次男)は幼時、姉弟のように育った。
   *母の末弟・竹廣美孝は私が少・青年期、最も大きく影響を受けた一人。俳人・竹廣三雨(『冷凍音楽隊』など)として活動したほか、芸術全般に幅広い触角を持つ偉大なるディレッタントでもあった。奇人として知られた広島在住の画家・末川凡夫人の親友で、美孝の家は戦後の一時期、数多くの芸術家が集い、〔エコール・ド・ヒロシマ〕の感があった。
  *萩原朔太郎は関東大震災後の大正14(1925)年、群馬・前橋から再上京したとき神田に住んで、親友の室生犀星や芥川龍之介らとよく行き来した。母の話によると「朔太郎さんはいつも丹前を着てのっそり店に入ってきた」そうだ。マンドリンやギターを弾き写真(カメラ)を愛好したことで知られる彼が、年齢が近くアメリカで写真を学んできた『東亜』オーナーの祖父と話が合ったことが想像される。ジャズについては『新しき欲情』の中に『野蛮人の音楽』という題で評論し、ベートーベン以上といった表現をしている。室生犀星には昭和4年に新聞発表した『ジャズの中』という作品がある。
   *紙恭輔(1902-1981)は広島市大手町出身で、東京帝大法学部出の初の本格的ジャズプレーヤー。井田一郎、二村定一らとともに日本のジャズ黎明期に活躍した。「紙恭輔さんはうちに下宿してらっしゃった」と母が言っていたのを思い出すので、東大時代に神田の竹廣家に下宿していたのか。いずれにせよ「東亜」にはよく出入りしていたようである。彼は母の10歳上で、何度も彼の名前を耳にしたから、名木家と母を繋いだのはもしかしたら家が近かった広島大手町の紙家だったかもしれない。
 *私はそれぞれ別の筆名で多くのジャンルの仕事をしてきた。若い頃には「竜亜知也」なる名前でも書いていたが、これはアメリカのハードボイルド小説『動く標的』(映画はポール・ニューマン主演)の主人公リュウ・アーチャーをもじったもので、その作者ロス・マクドナルド(1915-1983)は祖父母がパロアルトの前に住んでいたカリフォルニア州ロスガトスの生まれ、母の3歳下である
  *母・静江 2018年2月没・享年105    
 *静江は1912年6月10日にサンフランシスコ近くのバロワルトで生まれた。その日はタイタニック号沈没事故の60日後であり、またその50日後の7月30日には日本で明治天皇が崩御され世が大正に変わった。そうして85年後の晩秋、私は映画『タイタニック』の本づくりにプロデュースと執筆の両方で携わることとなったが、彼女は出版されたその本を手にし布団の中で胸に抱きしめて眠ったという

   上写真は安芸の宮島の神域に入ってすぐのところにある対の常夜灯(GoogleEarthより)。これは祖父が音頭をとって広島の米問屋連が寄進したものらしい。写真の両塔の礎石に祖父・名木庄七の名前が彫ってあった。宮島でも最も大きい石塔で、しかも目立つところにあるからこれだけは確認しているが、ほかにもあると聞いている先祖寄進の灯籠についてはどこにあるのか調べたこともない。


    

麻雀牌のものがたり

 

                                                                【2019年3月】    
    
               広島が都だった⁉

 冗談に聞こえるかもしれないが、広島はかつて日本の都(みやこ)だったことがある。
 都とは広辞苑でいうところ、こうだ。

 ①帝王の宮殿のある所。みさと。京。②古く、天皇が一時仮に居所とした行宮(あんぐう)をもいう。③首府。首都

  *名木家の家紋は「武田菱」であり、承久の乱後の承久4(1222)年に甲斐武田と分かれた武田伊豆守信光が安芸国守護に任ぜられて以来の武田家にルーツをもつ。戦国期の天文10(1541)年に武田信実・信重が佐東銀山城で毛利元就によって滅ぼされてからは帰農し、以来、名主(庄屋)として明治まで代々続いてきた。当主は代々「庄七」を名乗ったが、祖父の17代目名木庄七から父・名木實(みのる)が長男の死によって当主を受け継いだ際、この習いは廃止された。

   *名木家は確かな古資料では桓武平氏に発しているとされているが、広島・名木がなぜ源氏の筋の安芸武田をルーツとしているのかは不明である。巻物になっていたという名木家の家系図は原爆によって焼失し、古き先祖に遡ることは困難になった。父(實)の母・静江との見合い結婚の際に提出された戸籍謄本には(当時の様式で)わざわざ「家柄良」「血統正」という記述がある。

   *17代目庄七は名木の呼称を「なぎ」では語感が弱いとして重箱読みの「めいき」と呼ばせるようにしたが、本来は「なぎ」であり、現在は元の「なぎ」に復している。

   *「明暉楼」の敷地は現在の平和公園内、元安橋西詰の川の石段=雁木(かつての船着き場)の所から広島迎賓館(現・広島市レストハウス)のあたりまでであった。戦前の広島の繁華街はこの界隈であったが、その発展に「明暉楼」が果たした役割は大きかったようである。






   *イザナミは火の神カグツチを産んだとき陰部に大火傷を負って病に臥し、そのために亡くなって黄泉の国に行くが、このとき見舞いに来たイザナギに自分の恥を見られたと怒り狂ったとされる。その気性の激しさが「(荒)波」の文字につながる。
  *イザナギはイザナキもありとされるが、どうだろう。今より鼻母音の発音が多用された古代にイザナキという言いにくい発声を当時の人がしたものだろうか。「ナキ」では「亡き」の忌み語に通じるし、「哭き」「泣き」の弱さもある。それでは国産みの神の名前として頼りないではないか。イザナギと古来より言われてきたのはそういった理由に違いないし、いま全国に散在する名木姓が「なき」より「なぎ」の呼び名を多く残すのも同様である。
  *「ナギ」にはまた草や物を強く払う「なぐ」という古くからの言葉から発生した「彅(なぎ)」なる漢字があり、強者+薙ぐ(横に強く切る)の会意から、こちらは武士の姓に用いられた。草薙、草彅も出元を一にする

    *「ナギ」の名前を持つ神社は他にも、京都祇園にスサノオを祀る「梛(なぎ)神社」、イザナギを祀る社としては最初に国生みしたオノコロ島(淡路)にある「伊弉諾(イザナギ)神宮」、岡山の「諾(なぎ)神社」、鳥取の「那岐神社」などがある。伊弉諾神宮の丁度真東の位置にはイザナギとイザナミの子・天照大神(天皇の祖神)を祀る伊勢神宮がある。

   *余談ながら、広島市の中ほど東寄りの京橋川の東岸にも比治山と名の付く小高い丘(標高71メートル)がある。全山が公園に指定されていて山内には比治山神社もあるが、京都丹後の比治山伝説とはどうやら関係がないらしい。この丘と京橋川を挟んだ対岸に、昔「別荘通り」と呼ばれた鶴見町(現中区鶴見町)があり、名木家の別荘もそこにあった。その二階から京橋川の水面と比治山が望まれて、祖父はよく宴を張っていたという。鶴見というぐらいだから鷺(さぎ)などの水鳥も見られただろう。父は家督を継いだときその別荘を本宅とした。それゆえ私の本籍地は生まれた当時からそこに置いたままになっている。

                      ■この稿つづく麻雀牌のものがたり


■コラム「風媒花」

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