名木宏之ブログ② コラム「風媒花」
【コラム】 風媒花
文/名木宏之(なぎひろゆき)
――もくじ(抜粋掲載)――
田村正和さん、逝く/拝啓 小池百合子さま/ビートルズ自慢/My Favorite Songs(Karaoke)/縮れっ毛のこと/白物おでん/梅
【名木宏之/プロフィール】 文筆家・出版プロデューサー。1944年広島生まれ。広島大学理学部(数学科)在学中はボート選手として活躍する一方で著作をはじめ、4年時に中退。東京の業界紙記者・コピーライターを経て出版社・日本文芸社に入社し、雑誌編集部のち書籍編集部に勤務。74年に独立して著作するかたわら出版プロデュース、アートディレクションを手掛け、多くの話題書・ベストセラーを生み出すとともに、国内外で新雑誌8誌を世に出した。キャリアを通して複数の筆名を用い本名での活動は少ない。亡妻(1990年没)との間に1男1女。
本欄メール shoubunn@gmail.com えっ、と思った。
さっきテレビで俳優の田村正和が亡くなったことを割り込みで報じていて、そのことに驚いたのはもちろんだけど、「享年77」と耳に入ってきたから、あれっと思ったのだ。だめだよ、訃報で年齢を間違えては。
ところが何十分か後にちゃんとニュースで聞いても、やっぱりテレビは77だという。
そうか、間違えていたのは自分のほうだったのか。私は初対面から何十年もずっと彼を同い年だと思いつづけてきたものだから、ちょっと焦った。彼は一つ年上だったのだ。
そのことに気づく機会は何度もあったはずなのに、どうして……。私が7月生まれで彼は8月か9月生まれだったはずから、むしろ自分のほうが目上のように思ってきたのだ。
初めて会ったのは20代後半の若い頃で、昭和48、9年だったと思う。
品川プリンスホテルの喫茶ロビーで、そこを常宿にしていらっしゃった作家の柴田錬三郎さんと訪ねた横尾忠則さんと私の3人でしゃべっていたところに、あの人(年上だと知ったらこの欄で「彼」と書き流せなくなった)が現れた。そしてぼそりとだけど丁寧に挨拶をし、そのまま同席することになったのだ。
「あのこは?」
しばらくして柴田さんが訊くと、「もうすぐ着くはずです」と田村さんは入口のほうを目で探しながら答えた。
私もつられて入口に顔を向けると、遠目にも真っ黒な大きな瞳と長い黒髪の人探し顔の美しい女性が目に入って、「あのこ」が人気の女優松岡きっこさんなのだとすぐに知れた。二人は映画の「眠狂四郎」シリーズの何かの役で初めて共演することになって、原作者の柴田さんに挨拶にやってきたのだった。*横尾忠則さんは単行本『眠狂四郎』(新潮社)の装丁や同名舞台作品の美術監督も担当され、ちょうどその頃はサンタナ「Lotus(ロータス)」のレコード・ジャケットのデザインもおやりになっていた。
「(歳が)いっしょぐらいじゃないの?」
横尾さんが歓談の途中でそれとなく私におっしゃって、その時にはっきり確かめたのかどうだったか、同い歳とばかり思いこんでしまったらしい。 あの人のほうが生まれ月が後ろだと知ったのもそのときでそのへんのやりとりは今でも覚えている。
「眠狂四郎」の田村正和さん(フジTV)
それからしばらく経ってテレビ局のロビーホールでばったり会ったとき、あれっというように目顔で挨拶を向けられ、そのころにはすでにあの人は「眠狂四郎」シリーズの主役で世の中を風靡していらっしゃったから、私のことを覚えてもらっていることを意外に感じて目礼を返したものだった。それからも二三度、なにかの会やなんかでお会いすることがあり、二言三言話したことはあったが、特別に親しくしたわけではない。私も田村さんもどちらかというと人見知りするほうだった。
訃報にえっと思ったついでにこんなことを思い出して書くつもりになったのは、同い歳でしかも私のほうが少し早く生まれていると思い込んでしまっていて、礼を欠いた態度をその都度とっていたのではないか、私が一つ年下だと思っていたらもっと私のほうから歩み寄って親しく話すことができたのではなかったかと、それをとても残念に思ってしまったから。
その非礼を詫びながら田村正和さん、改めてご冥福をお祈り申し上げます。時を知りすっと表から身を引かれたあなたの”老いざま”に、私は同感し美しく感じていたのです。 合掌 (2021.5.18)
拝啓 小池百合子さま
都議会議員選挙での圧勝。まずはおめでとうございます。
おめでとう、なんて軽く言うと、貴女のことだから「あら、その分責任が重くて大変なんですよ」と、目元をきゅっと締めて小睨みされるでしょうけど。でも、ほんとによかった。
早いもので、あなたとお会いしたころからもう20年にもなるんですね。いただいた名刺の裏には「新進党副幹事長」の肩書がありますから、1997年だったはずです。
衆議院議員会館のあなたの部屋で小一時間話したのと、その前後に港区のすし屋でお会いしたこともあった。すし屋の時はほかに何人かあなたの親しい人も一緒でしたから、ほとんど話らしい話はしなかったと思います。(写真は毎日新聞デジタル7/3から)
議員会館には私一人でなく民放テレビ・ニュース番組のレギュラー・コメンテーターを務めていた政治記者と二人で行きましたね。いきさつは忘れましたけど、たしか彼から誘われて行ったような記憶があります。
「今の政治に何を望まれますか?」
あなたは私が物書きでプランナーであることを知ったうえでそんなふうに話を向けられた。
「国民に見える政治を行ってもらいたい」
即答すると、あなたはうんうんというように首肯され、私は勢いを得て持論を展開しました。「どんな小さな委員会であれ必ずテレビで放送するようにすれば、少なくとも密室政治の非は避けられるでしょう」
「テレビね……ですけど方法が、ねえ……」
地上波テレビ出身のあなたは具体的なイメージが湧いてこないような様子なので、私は言いました。「CS放送ならチャンネルは空いてますよ」
あなたはすると、大きい目をさらに大きく開けて、私に素晴らしい笑みをお返しになったのです。
……でも、この話はその場だけで終わりました。私はそのときアメリカと契約して翻訳権を持っていた映画「タイタニック」の本づくりをしなければならなかったし、続いてすぐに博物館を作らねばならなくなり、(休眠中の放送局を買収する手立てがあったにもかかわらず)忙しくてあなたと続きの話をする機会を持てなかったからです。
あなたは今「見える政治」を標榜され、つねに実行の努力を払ってさまざまな会合にテレビカメラを入れようとされている。同慶に思います。
さあて、これからがもっと大変だ。
でも大丈夫でしょうよ、あなたならきっと乗り切れるでしょう。都知事就任の会見で座右の書を訊かれ、『失敗の本質』(1984年ダイヤモンド社/文庫=中央公論社)を挙げていらっしゃったくらいですからね。今の閣僚でいったい何人がこの本の存在を知り、読んでくれていることか。ここ数年の国会を見ていると、胸が痛くなってまいります。 ※『失敗の本質』――太平洋戦争における日本軍の作戦決定を分析し現代の組織論に迫る好書。
頑張ってください、小池さん。あの時はタレント議員という思いが片隅にあって失礼したかもしれませんが、いま私は勉強家で胆力のある小池百合子という政治家に、大いに期待しているのですよ。 敬具
※追啓 そうそう。またお会いすることがあれば直接お伝えするほうがいいのですけど、永田町辺りまで出かけるのがだんだん億劫になってきましたので、言っておきます……そうだ、今は永田町じゃなく新宿・都庁にいらっしゃるんでしたね。
あなたはコメントでどうも英語をお出しになることが多く、海外生活が多かったとはいえ、どうかなと思っていますよ。私もその癖があるから言いづらいんですけれども。大事な語句で英語をお出しになることがありますから、それじゃあ隅々まで伝わりにくい。ここぞという言葉は日本語でおしゃべりになるほうがいいです。余計なことかもしれませんけど、老爺心ながら……。 (2017年7月3日未明)
※追追啓 小池さん、あなたらしくない、油断してしまいましたね。三月前に先の文を書いた時点で、あなたがまさかあのタイミングで国政に軸足を向けられるとは思わなかったし、ジャーナリストの誘導尋問に引っかかった形で前原氏の発言「(民進党一部議員が)排除(されない)」をそのまま不用意に口に出してしまうなどとは思いもしなかった。あなたの希望の党はこの衆議院議員選挙、このままでは大敗してしまうでしょう(公示後だけどあえて言いますよ)。
あなたの愛読書『失敗の本質』を例に出してあんなに褒めたのに、なんという油断! なんという失敗! 側近は何をしてたの? 本当の有能な側近・ブレーンは、もしかしていないんじゃないですか? 組むべき者を見誤ってはいけません。 (2017年10月13日)

ビートルズ自慢
ちょうど50年前の今日、私は福岡・中州のジャズ喫茶『リバーサイド』でぼんやりとマイルス・デイビスを聴いていた。ザ・ビートルズが東京・武道館で来日公演を行なった日だ。広島の大学4年に在籍していながら、専門のパズル解き(数学)をどうにも続ける気がしなくて、逃げるように九州や大阪をさまよっていた時だった。
その3年前に、私はおそらく日本で何番目かぐらいに早くザ・ビートルズの曲を聴き、その存在にいち早く目をつけていた。以前にもそのことについて書いたことがあるが、ビートルズを日本国内で二番目に聴いたことを自認し、ひそかにずっと自慢にしてきたのだ。
昭和38(1963)年4月、大学に入りたての私はサークル(ボート部)で仲良くなった同級生Y君から、面白いレコードが手に入ったから下宿にくるよう誘われた。英国リバプールのペンパルから送られてきたのだという。
こちらで人気が出ているグループですから聴いてください、といった内容の手紙があって、封筒からY君がとり出したのは1枚のソノシート(極薄のレコード盤)だった。
さっそく彼の蓄音機で聴く。と、最初の音と声が流れてくるや、(音はよくなかったはずだけど)ガーンと頭をぶん殴られたようなショックを覚えた。聴き終わっても、いままで聴いていた音楽とは全然違うぞ、という思いで胸がどきどきした。
大げさじゃない。それぐらい新鮮だったということです、ビートルズは。私の興奮を見て、高校で吹奏楽をやっていたY君も、なっそうだろって顔をしていた。
伝説のアメリカ公演がおこなわれたのは翌1964年2月で、そのあたりからビートルズは世界的に大ブレイクした。日本で湯川れい子さんや星加ルミ子さんがどんどん紹介するようになったのもその頃のことだ。日本公演はさらに2年後の66年6月末だった。
ビートルズ関係のいろいろな読み物をあたっても63年4月に国内で聴いた記録にはお目にかからないので、Y君が一番、私が二番目にビートルズを聴いたということに勝手に思うことにしたのだった。
だけど、それほど鮮烈な印象を持ったのに、曲名ははっきり覚えていないのだから不思議だ。デビュー曲の『ラブ・ミー・ドゥ』だったと思うのだが、確かではない。もしかしたらデビュー前の曲だったかもしれぬ(Y君からそう聞いたような気もする)。
工学・土木専攻のY君*はのちに瀬戸大橋や淡路海峡大橋をはじめ世界の長大橋をつぎつぎに設計してその道の権威となり、ほとんど海外で生活している。 十何年か前に彼と会ったとき、あのソノシートのことを訊いたら、友達に貸したままどこに行ったかわからなくなった、とのことだった。
「ええっ、もったいない! あれはそうとうな値打ちもんだぞ」
嘆く私に彼は泰然として言ったものだ。「いま1200万円ぐらいの値がついているらしいよ」
*Y君はトランペットをやり、私もペットとギター(クラシック)をやっていた。そんなことで親しみを感じたのかもしれない。彼とは2年時に全日本大学漕艇選手権で一緒に漕ぎ、ジュニア・フォーで4位に入賞した。
ちなみに、日本公演のときビートルズは厳重警備のためヒルトンホテル(現キャピトル東急ホテル)の10階のスイートにカンヅメ状態になったが、それを彼らの斜め前の部屋で監視しエスコートしたのが、私の畏友で大先輩でもある矢崎泰久という人だった。
矢崎さんはその前年に『話の特集』を創刊しており、私は68年にその編集の手伝いをさせてもらうべく彼の面接を受けた。実際に私がその雑誌で働くことは(私の都合で)できなかったけれども、ずっと後で親しくなってそれを話したら、矢崎さんはそのことをすっかり忘れてしまっていた。
ま、それはさておき、矢崎さんがあのときヒルトンでビートルズの見張り役をやっていたというのは、ご本人から聞いたので間違いない。『話の特集』は『ビートルズ・レポート』という増刊を出したからその編集企画のためその役を請け負ったのか、あるいは来日公演を仕切った協同企画(永島達司社長)と話の特集が神宮前の同じビルに事務所を置いていたからその縁で頼まれたのか、永島さんと矢崎さんが前々から親しくしていたからやったのか。そのへんは詳しく聞いていないのでわからない。今度会ったときに確かめておこう。 こんなふうに書くといかにもビートルズ党のようだが、じつはそれほど彼らに熱中したわけではなかった。若い時の私はどちらかというと硬派だったし、英国ロックは硬めのローリングストーンズも台頭していた。それに私はゆくゆくジャズ評論でもやろうかというぐらいに、ジャズ・マニアだったのだ。※ジャズ話のついでに……上写真はジャズ・ピアノの巨匠チック・コリアと私(名木)。彼は1997年の日本公演のとき、親友の俳優ジョン・トラボルタの私へのメッセージを伝えるために公演会場に私を呼んだ。
博多の『リバーサイド』であの日ビートルズのことを思ったのも、大騒ぎになってるけどその日ちゃんと武道館でコンサートができるんだろうか、といったことぐらい。ビートルズを凄かったんだなと再認識したのは、彼らが解散した後だった。
……いずれにしても、あのあたりの面白い時代のことはこんな欄で簡単に書けることでもない。機会があれば、まとめてみよう。 (2016年6月29日)
My Favorite Songs(Karaoke) これも耄碌(もうろく)か……たまに誘われてカラオケに行って、さて歌おうかというときに、自分の歌う曲が浮かばなくなることがある。なじみの薄いメンバーとならだいたい演歌を主にした邦楽、身内や仲間内だとオールディーズ・ナンバーやジャズ、ロックなどを歌うことになるが、頭の中にメロディーは浮かんでも題名が出てこない。
歌ってよ、とせっつかれると、「そうねえ……うむ。ほら、イントロが尺八の東北の歌があるでしょ。あれですよ、あれっ!……下関出身の高校野球選手の……」。みちのく一人旅が出てこない、山本譲二が出てこない”(-“”-)”。それでも日本の歌ならまだなんとかなるけれども、"記憶限界"にさしかかった今、洋楽はまったく覚束ない。歌手名も曲名もはるか遠くに消えてしまって、いったん思い出せなくなると、頭をぶん殴っても絶対に浮かんでこないのだ。
そんなだから前々から歌う曲をメモしておく必要があったが、ようやく整理してみる気になって、よく歌っている曲から何度か歌ったまあまあ歌える曲まで並べてみた。備忘録として列記しておくべし (順不同)。
……それにしてもまあ、古い曲ばっか😅
(2016年4月30日)
縮れっ毛のこと
白状すると、私は主に3つのペンネームを使っていろんな雑誌にいろんな話を書いてきた。小説やエッセイに加え、漫画の原作もかなりやった。*文末付記
その一つ。随分昔に漫画週刊誌でやわらかい内容のコラムを連載していたことがあって、冒頭で「白状すると」とわざわざ断ったのは、モロエロではないけれども、かなり色い話を盛り込んで書いたこともあったからだ。
当時の掲載雑誌類を私はほとんど保管してこなかったから(つまり書きっぱなしにしていたということなんだね)、思い出しながら一例を再現してみると、まあこんなこと。……陰毛に関するいい加減な話で、どうしてこれが縮れているかということを言語学的(?)に説いたものなんか、だ。
さて、なぜ縮れているのか。
答えは簡単。要するにパンツパーマがかかっているんだよね。
オチを説明するのもなんだからそのまま話を展開させてもらうが、マジにとらえて、じゃ、パンツを穿いていなかった頃はどうだったかという突っ込みが入るかもしれん。そんな疑問に対しては、断言してあげてもいい、もちろん直毛だったよ。サルマタやパンツの繊維で擦れてなかったんだから。
そこを隠していなかった頃といえば、石器時代よりはるか昔。何百万年前のミッシングリンクの時代だろ。その頃の陰毛の標本など出てきっこないのだから、私は強気でそう言えるわけだ。しつこい人がいて、じゃゴリラやチンパンジーのそれは? などと言い出す輩まで相手にする必要はあるまい。私はゴリラのそこなどじっくり観察したことがないし、弱気になってしまう懼れもあるからね。
もうちょっとこの理論(。´・ω・)?を展開すると、人類の進歩は「火を使いはじめたから」だとか「言葉を話せるようになったから」だとか、古来もっともらしいことが言われてきたけど、重大なことを抜かしているよ、と学者さんたちに私は力説してやりたい。ヒトがそこを隠すようになったことが、文明の発展をどれほど大きく左右してきたかということだ。
隠されている部分はどうなっているのか? というこの悩ましい妄想がどれほど大きく人類の想念、ひいては思考・思想を(複雑に)発展させてきたことか。学界で私のこの大いなる仮説・提言を真面目に取り上げてくれることを望んでいる。
驚いたことに後に活字の大雑誌で、わが理論とはちょっと違う話ながら《パンツパーマ》という同じ言葉を使ったオチがあげられていたことがあった。ほら見ろと自説の優位性に自信を持ったと同時に、彼我のヒマ人が考えるダジャレはこの程度なんだなとがっかりもさせられたものだ。
この縮れっ毛、たまに風呂に浸かっていて浮かんでいるのを発見することもある。これの元の所有者について、他人なのか自分のか、男性の物か女性の物かということも大いに気になるところだけれど、では言語学的にこれを何というのか。
勘のいい人はわかるよね、そう、オフロ(アフロ)ヘアーだ。
陰毛ほど重要な扱いは受けないけれども、腋毛も縮れている。これは何というか。うむ、おっぱいの脇(側)にあるんだから……ソバージュでしょうが。ちょっと苦しいかな、これ。
……こんなヨタ話を紙数を使って原稿料稼ぎのためにくどくど展開させ、似たような話を別の雑誌でも流用したりしたのだから、私も若い頃は相当図々しかったものだ。今や恥ずかしながらこれ以上こんな話を発展させるほどの勇気も気力も失った。老いたということなんだろうかねえ。寂しいような気もするが、恥の上塗りをこれ以上重ねることを防ぐということでは、老いもまあ悪くはないか。
【*付記】 よく聞かれることだが、私は四十代の半ばに小説や漫画原作など得意にしていた作り話に意欲をなくし、書くことをやめた。身近で大切な人を不治の病で4年の闘病の末に亡くして、その時に作り話が一切書けなくなった。作り話そのものを身体が受け付けなくなったというか、書くことはおろか、他人の作品も読めなくなったのだ。それからの三十年は仕事の方向を変えて書いてきたけれども、このことについては別の機会にくわしく述べることもあろう。(2016年1月3日)
白物おでん
おでんで熱燗一杯の季節となって、昨夕は今冬はじめてこれをやった。例年よりかなり遅い。地球温暖化が食の歳時記を少しずつずらしているということなんだろうか。
15、6年ほど前、新聞社の人たちが集う句会に誘われて月一で1年ぐらいお付き合いしたことがあった。内内の俳号は左右惜(そうせき)。付き合い、という程度だからあまり熱心な会員ではなかったが、その会では短歌も一首だけ投句(投首か)する決まりになっていて、あるときその選句の座で話が春の七草に及んだ。
「芹なずな 御形(ごぎょう)はこべら 仏の座 すずなすずしろ これぞ七草」というあれで、覚えやすく和歌調になっているという話。平安時代に四辻善成左大臣が詠んだというような講釈があったが、そんなことはまあいい。よしそれではと、その右折禁止の交差点のような名前の昔の大臣に対抗して、お調子者のやつがれが即興的に詠んだのがこれだった。
だいこんに こんにゃくちくわ こぶたまご
がんもじゃがいも つみれはんぺん
まじめな人たちの集まりで、ほとんど失笑まじりのチョイ受けに終わったが、あとで私はけっこういい出来じゃないかと自分なりに評価し直した。「こぶたまご」「がんもじゃがいも」の韻のぐあい、「つみれはんぺん」と撥音で締めている小気味よさ。歌会始のようにこれに抑揚をつけ声に出して詠み上げるとさらに具合がいい。もうちょっと高い評価を受けてもいいはずではなかったか。 会ではこれ以後短歌でも三十字以内の自由詩でもよいとした。私はそれをいいことに悪ノリしてこんなのもやった。
割烹着の夏目雅子が夢枕に現れて凄(すご)む……。
「鍋、皿、ヤカンぜよ!」
昔、神田神保町の一本裏の通りに「いちこう」という旨いおでんの店があって、出版社勤めしていた若い時分には三日と空けず通っていた。昼飯を食べたり、飲んだり……。おばさんと娘さんでやっていたが、私の好物はふくろ(巾着)。 ほかのものより幾分値が張るけれども、なんともいい味をだしていた。
おばさんが亡くなったという噂を聞き、もうやってないだろうと何年か経ってその通りを覗いたら、娘さん夫婦がちゃんと暖簾を継いでやっている。うれしかったね。昔の味をそのまま保っていて、「これが俺のおでん、なんだ」と何度も胸の中で頷きながら食べたものだ。
うちでつくるおでんには、はんぺんやちくわぶが大きな顔をして入っている。はんぺんはともかくとして、私のように西のほうで育った人間にはちくわぶというやつがどうも体質に合わない。口の中でぬちゃっとくる気色の悪い食感と、なによりこれのためにつゆが白濁するような気がしてよくない。 私は「白物おでん」とばかにして、入れないように何度も抗議しているのだが、敵は「家電じゃあるまいし……これがあるからおでんなんです!」とがんとして譲らぬ。あげく「おでんは関西では関東煮(だき)と言うでしょ。本場はこっちなんだからいやなら食べなきゃいいのよ」だと。
ちくわぶの代わりに牛すじが入っていればどんなにかうれしいのに、また今年も白物おでんが幅を利かす時がきて、私の年が暮れる。
(2015年12月15日)
うめ
いま、梅である。とても梅である。
どこからか、かそけく香りが届く。風のほうを見やると、垣根の向こうに梅花がちらりと見える。これがいい。開いた花々がわっと見えて、香りを探しに鼻を向ける。これもいい。
いったいに男というのは花に鈍い。私もそうだった。桜でさえも、花をこんなものかと目にするだけで、あとはどんちゃん騒ぎをするばかり。
梅のよさにやっと気づいたのが、40を過ぎたころだった。
京都・仁和寺の中庭のようなところを女と歩いていたら、ふと香る。その香りの先を探してみたら、私の背丈ほどの枝のない細木がぽつんとあって、てっぺんに大きめの梅花を何輪かつけている。ああ、梅なのか。これが、花の風情か……。
そんな話を6、7年前にちょっと書いたら、その梅を確かめにわざわざ東京から出向いたという人がいて、たまげた。それも、仁和寺まで二度も行ったんだと。 一度目は探せなくて、二週間後の花の時期にお寺の人に訊いてやっと見つかったのだそうだが、寺人は、そういえばありますなあ、梅の木が、といったほどの口ぶりだったらしい。
「なんでそんな……二週間に二回も!」
「だって、仁和寺は桜でしょ」
「有名ですよね、御室桜で」
「どうして仁和寺で梅なのか、知りたくて」
「奇をてらったわけじゃないですよ。仁和寺ではじめて梅のよさに気づいたのは確かなんだから」
「それが悔しくて行ってみたんです」
「悔しい? はあ……どうして悔しいんだろ」
「…………」
「で、梅の木はどうでしたか。大きくなっていましたか」
「あなたの背丈ぐらい……いやもうちょっとあったかしら」
「そう……じゃ、二十何年経ってもほとんど伸ばしていないんだ。……あの木は、やっぱりあそこに一本だけでしたか」
相手は返事を省いて頷き、ちょっと間をおいて口を開いた。「あの梅の花のこと……わたしにも分かるような気がします」
私には梅の木はたくさんはいらない。何本かでいい。
何某梅林というのも悪くはないが、そううれしくもない。
青梅の梅林には一年おきぐらいに行っていたけども、一昨々年もうあまり行く気がしなくなった。
十分に花がありすぎるくらいだったのに、さらにもう一つの山の斜面いっぱいに梅木を植えている。
「そんなに増やすんですか」
訊いたら、担当者らしい人が別の斜面を指さしながらにっこりして答えてくれた。「ええ、まだあっちにも植えますよ。何年か先が楽しみです」
秘すれば花……世阿弥を読ませたいと、私は彼の屈託のない顔に対して思った。
青梅梅郷が木の毒(ウイルス)にやられて梅木1万本を伐採するという記事を読んだのは、去年(2012年)のことだった。
君ならで誰にか見せむ梅の花
色をも香をも知る人ぞ知る
古今だっけ、新古今だっけ。紀友則だから……古今集だったな、たしか。
【蛇足】
『風姿花伝』(花伝書)まで引き合いに出したので、それじゃお前はどうだ、「とても梅である。」などという言い方をしていいのか、と煩い向きにはとがめられそうである。
大丈夫でしょう、世阿弥は怒る気もしないでしょうから。私はそう答えるほかない。
世阿弥の時代、「とても」には「非常に」とか「たいへん」とかいった意味はなく、打消しの言葉でしかなかった。「とても美しい」などという言い方がすでに彼にとっては反則なのだから、「とても梅――」と68の風狂の爺が書いたことを知ると、苦り切ってもはや言葉もないだろう。今の時代に降りてきていただいて、新たに『風刺訛(か)伝』*でも書いてもらいましょうかね、拙筆の私めらのために。 ※訛伝=あやまって伝えること。まちがった言い伝え(広辞苑)。
麻雀牌のものがたり❶ 皇帝御牌
麻雀牌のものがたり❷ 天女散花牌
麻雀牌のものがたり❸ 桑港花辺牌
麻雀牌のものがたり❹ 青花児嬉図袁世凱陶牌
麻雀牌のものがたり❺ 仏兵捕虜の手製アルミ牌
麻雀牌のものがたり❻ 純銀製秘宝牌
麻雀牌のものがたり❼ 松樹下修身図犀角牌
麻雀牌のものがたり❽ ウイーン浮世絵牌
麻雀牌のものがたり❾ 巣鴨プリズン手製木牌
麻雀牌のものがたり➓ 龍1索翡翠牌
麻雀牌のものがたり⓫ カナダ石牌
麻雀牌のものがたり⓬ 梅蘭芳愛用牌
身内話のついでに
おめでとう、なんて軽く言うと、貴女のことだから「あら、その分責任が重くて大変なんですよ」と、目元をきゅっと締めて小睨みされるでしょうけど。でも、ほんとによかった。早いもので、あなたとお会いしたころからもう20年にもなるんですね。いただいた名刺の裏には「新進党副幹事長」の肩書がありますから、1997年だったはずです。
衆議院議員会館のあなたの部屋で小一時間話したのと、その前後に港区のすし屋でお会いしたこともあった。すし屋の時はほかに何人かあなたの親しい人も一緒でしたから、ほとんど話らしい話はしなかったと思います。(写真は毎日新聞デジタル7/3から)
議員会館には私一人でなく民放テレビ・ニュース番組のレギュラー・コメンテーターを務めていた政治記者と二人で行きましたね。いきさつは忘れましたけど、たしか彼から誘われて行ったような記憶があります。
「今の政治に何を望まれますか?」
あなたは私が物書きでプランナーであることを知ったうえでそんなふうに話を向けられた。
「国民に見える政治を行ってもらいたい」
即答すると、あなたはうんうんというように首肯され、私は勢いを得て持論を展開しました。「どんな小さな委員会であれ必ずテレビで放送するようにすれば、少なくとも密室政治の非は避けられるでしょう」
「テレビね……ですけど方法が、ねえ……」
地上波テレビ出身のあなたは具体的なイメージが湧いてこないような様子なので、私は言いました。「CS放送ならチャンネルは空いてますよ」
あなたはすると、大きい目をさらに大きく開けて、私に素晴らしい笑みをお返しになったのです。
……でも、この話はその場だけで終わりました。私はそのときアメリカと契約して翻訳権を持っていた映画「タイタニック」の本づくりをしなければならなかったし、続いてすぐに博物館を作らねばならなくなり、(休眠中の放送局を買収する手立てがあったにもかかわらず)忙しくてあなたと続きの話をする機会を持てなかったからです。
あなたは今「見える政治」を標榜され、つねに実行の努力を払ってさまざまな会合にテレビカメラを入れようとされている。同慶に思います。
さあて、これからがもっと大変だ。
でも大丈夫でしょうよ、あなたならきっと乗り切れるでしょう。都知事就任の会見で座右の書を訊かれ、『失敗の本質』(1984年ダイヤモンド社/文庫=中央公論社)を挙げていらっしゃったくらいですからね。今の閣僚でいったい何人がこの本の存在を知り、読んでくれていることか。ここ数年の国会を見ていると、胸が痛くなってまいります。 ※『失敗の本質』――太平洋戦争における日本軍の作戦決定を分析し現代の組織論に迫る好書。
頑張ってください、小池さん。あの時はタレント議員という思いが片隅にあって失礼したかもしれませんが、いま私は勉強家で胆力のある小池百合子という政治家に、大いに期待しているのですよ。 敬具
※追啓 そうそう。またお会いすることがあれば直接お伝えするほうがいいのですけど、永田町辺りまで出かけるのがだんだん億劫になってきましたので、言っておきます……そうだ、今は永田町じゃなく新宿・都庁にいらっしゃるんでしたね。
あなたはコメントでどうも英語をお出しになることが多く、海外生活が多かったとはいえ、どうかなと思っていますよ。私もその癖があるから言いづらいんですけれども。大事な語句で英語をお出しになることがありますから、それじゃあ隅々まで伝わりにくい。ここぞという言葉は日本語でおしゃべりになるほうがいいです。余計なことかもしれませんけど、老爺心ながら……。 (2017年7月3日未明)
※追追啓 小池さん、あなたらしくない、油断してしまいましたね。三月前に先の文を書いた時点で、あなたがまさかあのタイミングで国政に軸足を向けられるとは思わなかったし、ジャーナリストの誘導尋問に引っかかった形で前原氏の発言「(民進党一部議員が)排除(されない)」をそのまま不用意に口に出してしまうなどとは思いもしなかった。あなたの希望の党はこの衆議院議員選挙、このままでは大敗してしまうでしょう(公示後だけどあえて言いますよ)。
あなたの愛読書『失敗の本質』を例に出してあんなに褒めたのに、なんという油断! なんという失敗! 側近は何をしてたの? 本当の有能な側近・ブレーンは、もしかしていないんじゃないですか? 組むべき者を見誤ってはいけません。 (2017年10月13日)

ビートルズ自慢
※追啓 そうそう。またお会いすることがあれば直接お伝えするほうがいいのですけど、永田町辺りまで出かけるのがだんだん億劫になってきましたので、言っておきます……そうだ、今は永田町じゃなく新宿・都庁にいらっしゃるんでしたね。
あなたはコメントでどうも英語をお出しになることが多く、海外生活が多かったとはいえ、どうかなと思っていますよ。私もその癖があるから言いづらいんですけれども。大事な語句で英語をお出しになることがありますから、それじゃあ隅々まで伝わりにくい。ここぞという言葉は日本語でおしゃべりになるほうがいいです。余計なことかもしれませんけど、老爺心ながら……。 (2017年7月3日未明)
※追追啓 小池さん、あなたらしくない、油断してしまいましたね。三月前に先の文を書いた時点で、あなたがまさかあのタイミングで国政に軸足を向けられるとは思わなかったし、ジャーナリストの誘導尋問に引っかかった形で前原氏の発言「(民進党一部議員が)排除(されない)」をそのまま不用意に口に出してしまうなどとは思いもしなかった。あなたの希望の党はこの衆議院議員選挙、このままでは大敗してしまうでしょう(公示後だけどあえて言いますよ)。
あなたの愛読書『失敗の本質』を例に出してあんなに褒めたのに、なんという油断! なんという失敗! 側近は何をしてたの? 本当の有能な側近・ブレーンは、もしかしていないんじゃないですか? 組むべき者を見誤ってはいけません。 (2017年10月13日)
ビートルズ自慢
ちょうど50年前の今日、私は福岡・中州のジャズ喫茶『リバーサイド』でぼんやりとマイルス・デイビスを聴いていた。ザ・ビートルズが東京・武道館で来日公演を行なった日だ。広島の大学4年に在籍していながら、専門のパズル解き(数学)をどうにも続ける気がしなくて、逃げるように九州や大阪をさまよっていた時だった。
その3年前に、私はおそらく日本で何番目かぐらいに早くザ・ビートルズの曲を聴き、その存在にいち早く目をつけていた。以前にもそのことについて書いたことがあるが、ビートルズを日本国内で二番目に聴いたことを自認し、ひそかにずっと自慢にしてきたのだ。
昭和38(1963)年4月、大学に入りたての私はサークル(ボート部)で仲良くなった同級生Y君から、面白いレコードが手に入ったから下宿にくるよう誘われた。英国リバプールのペンパルから送られてきたのだという。
こちらで人気が出ているグループですから聴いてください、といった内容の手紙があって、封筒からY君がとり出したのは1枚のソノシート(極薄のレコード盤)だった。
さっそく彼の蓄音機で聴く。と、最初の音と声が流れてくるや、(音はよくなかったはずだけど)ガーンと頭をぶん殴られたようなショックを覚えた。聴き終わっても、いままで聴いていた音楽とは全然違うぞ、という思いで胸がどきどきした。
大げさじゃない。それぐらい新鮮だったということです、ビートルズは。私の興奮を見て、高校で吹奏楽をやっていたY君も、なっそうだろって顔をしていた。
伝説のアメリカ公演がおこなわれたのは翌1964年2月で、そのあたりからビートルズは世界的に大ブレイクした。日本で湯川れい子さんや星加ルミ子さんがどんどん紹介するようになったのもその頃のことだ。日本公演はさらに2年後の66年6月末だった。
ビートルズ関係のいろいろな読み物をあたっても63年4月に国内で聴いた記録にはお目にかからないので、Y君が一番、私が二番目にビートルズを聴いたということに勝手に思うことにしたのだった。
だけど、それほど鮮烈な印象を持ったのに、曲名ははっきり覚えていないのだから不思議だ。デビュー曲の『ラブ・ミー・ドゥ』だったと思うのだが、確かではない。もしかしたらデビュー前の曲だったかもしれぬ(Y君からそう聞いたような気もする)。
工学・土木専攻のY君*はのちに瀬戸大橋や淡路海峡大橋をはじめ世界の長大橋をつぎつぎに設計してその道の権威となり、ほとんど海外で生活している。 十何年か前に彼と会ったとき、あのソノシートのことを訊いたら、友達に貸したままどこに行ったかわからなくなった、とのことだった。
「ええっ、もったいない! あれはそうとうな値打ちもんだぞ」
嘆く私に彼は泰然として言ったものだ。「いま1200万円ぐらいの値がついているらしいよ」
*Y君はトランペットをやり、私もペットとギター(クラシック)をやっていた。そんなことで親しみを感じたのかもしれない。彼とは2年時に全日本大学漕艇選手権で一緒に漕ぎ、ジュニア・フォーで4位に入賞した。
その3年前に、私はおそらく日本で何番目かぐらいに早くザ・ビートルズの曲を聴き、その存在にいち早く目をつけていた。以前にもそのことについて書いたことがあるが、ビートルズを日本国内で二番目に聴いたことを自認し、ひそかにずっと自慢にしてきたのだ。
昭和38(1963)年4月、大学に入りたての私はサークル(ボート部)で仲良くなった同級生Y君から、面白いレコードが手に入ったから下宿にくるよう誘われた。英国リバプールのペンパルから送られてきたのだという。
こちらで人気が出ているグループですから聴いてください、といった内容の手紙があって、封筒からY君がとり出したのは1枚のソノシート(極薄のレコード盤)だった。
さっそく彼の蓄音機で聴く。と、最初の音と声が流れてくるや、(音はよくなかったはずだけど)ガーンと頭をぶん殴られたようなショックを覚えた。聴き終わっても、いままで聴いていた音楽とは全然違うぞ、という思いで胸がどきどきした。
大げさじゃない。それぐらい新鮮だったということです、ビートルズは。私の興奮を見て、高校で吹奏楽をやっていたY君も、なっそうだろって顔をしていた。
伝説のアメリカ公演がおこなわれたのは翌1964年2月で、そのあたりからビートルズは世界的に大ブレイクした。日本で湯川れい子さんや星加ルミ子さんがどんどん紹介するようになったのもその頃のことだ。日本公演はさらに2年後の66年6月末だった。
ビートルズ関係のいろいろな読み物をあたっても63年4月に国内で聴いた記録にはお目にかからないので、Y君が一番、私が二番目にビートルズを聴いたということに勝手に思うことにしたのだった。
だけど、それほど鮮烈な印象を持ったのに、曲名ははっきり覚えていないのだから不思議だ。デビュー曲の『ラブ・ミー・ドゥ』だったと思うのだが、確かではない。もしかしたらデビュー前の曲だったかもしれぬ(Y君からそう聞いたような気もする)。
工学・土木専攻のY君*はのちに瀬戸大橋や淡路海峡大橋をはじめ世界の長大橋をつぎつぎに設計してその道の権威となり、ほとんど海外で生活している。 十何年か前に彼と会ったとき、あのソノシートのことを訊いたら、友達に貸したままどこに行ったかわからなくなった、とのことだった。
「ええっ、もったいない! あれはそうとうな値打ちもんだぞ」
嘆く私に彼は泰然として言ったものだ。「いま1200万円ぐらいの値がついているらしいよ」
*Y君はトランペットをやり、私もペットとギター(クラシック)をやっていた。そんなことで親しみを感じたのかもしれない。彼とは2年時に全日本大学漕艇選手権で一緒に漕ぎ、ジュニア・フォーで4位に入賞した。
ちなみに、日本公演のときビートルズは厳重警備のためヒルトンホテル(現キャピトル東急ホテル)の10階のスイートにカンヅメ状態になったが、それを彼らの斜め前の部屋で監視しエスコートしたのが、私の畏友で大先輩でもある矢崎泰久という人だった。
矢崎さんはその前年に『話の特集』を創刊しており、私は68年にその編集の手伝いをさせてもらうべく彼の面接を受けた。実際に私がその雑誌で働くことは(私の都合で)できなかったけれども、ずっと後で親しくなってそれを話したら、矢崎さんはそのことをすっかり忘れてしまっていた。
ま、それはさておき、矢崎さんがあのときヒルトンでビートルズの見張り役をやっていたというのは、ご本人から聞いたので間違いない。『話の特集』は『ビートルズ・レポート』という増刊を出したからその編集企画のためその役を請け負ったのか、あるいは来日公演を仕切った協同企画(永島達司社長)と話の特集が神宮前の同じビルに事務所を置いていたからその縁で頼まれたのか、永島さんと矢崎さんが前々から親しくしていたからやったのか。そのへんは詳しく聞いていないのでわからない。今度会ったときに確かめておこう。
矢崎さんはその前年に『話の特集』を創刊しており、私は68年にその編集の手伝いをさせてもらうべく彼の面接を受けた。実際に私がその雑誌で働くことは(私の都合で)できなかったけれども、ずっと後で親しくなってそれを話したら、矢崎さんはそのことをすっかり忘れてしまっていた。
ま、それはさておき、矢崎さんがあのときヒルトンでビートルズの見張り役をやっていたというのは、ご本人から聞いたので間違いない。『話の特集』は『ビートルズ・レポート』という増刊を出したからその編集企画のためその役を請け負ったのか、あるいは来日公演を仕切った協同企画(永島達司社長)と話の特集が神宮前の同じビルに事務所を置いていたからその縁で頼まれたのか、永島さんと矢崎さんが前々から親しくしていたからやったのか。そのへんは詳しく聞いていないのでわからない。今度会ったときに確かめておこう。
こんなふうに書くといかにもビートルズ党のようだが、じつはそれほど彼らに熱中したわけではなかった。若い時の私はどちらかというと硬派だったし、英国ロックは硬めのローリングストーンズも台頭していた。それに私はゆくゆくジャズ評論でもやろうかというぐらいに、ジャズ・マニアだったのだ。※ジャズ話のついでに……上写真はジャズ・ピアノの巨匠チック・コリアと私(名木)。彼は1997年の日本公演のとき、親友の俳優ジョン・トラボルタの私へのメッセージを伝えるために公演会場に私を呼んだ。
博多の『リバーサイド』であの日ビートルズのことを思ったのも、大騒ぎになってるけどその日ちゃんと武道館でコンサートができるんだろうか、といったことぐらい。ビートルズを凄かったんだなと再認識したのは、彼らが解散した後だった。
……いずれにしても、あのあたりの面白い時代のことはこんな欄で簡単に書けることでもない。機会があれば、まとめてみよう。 (2016年6月29日)
……いずれにしても、あのあたりの面白い時代のことはこんな欄で簡単に書けることでもない。機会があれば、まとめてみよう。 (2016年6月29日)
My Favorite Songs(Karaoke)
これも耄碌(もうろく)か……たまに誘われてカラオケに行って、さて歌おうかというときに、自分の歌う曲が浮かばなくなることがある。なじみの薄いメンバーとならだいたい演歌を主にした邦楽、身内や仲間内だとオールディーズ・ナンバーやジャズ、ロックなどを歌うことになるが、頭の中にメロディーは浮かんでも題名が出てこない。
歌ってよ、とせっつかれると、「そうねえ……うむ。ほら、イントロが尺八の東北の歌があるでしょ。あれですよ、あれっ!……下関出身の高校野球選手の……」。みちのく一人旅が出てこない、山本譲二が出てこない”(-“”-)”。それでも日本の歌ならまだなんとかなるけれども、"記憶限界"にさしかかった今、洋楽はまったく覚束ない。歌手名も曲名もはるか遠くに消えてしまって、いったん思い出せなくなると、頭をぶん殴っても絶対に浮かんでこないのだ。
そんなだから前々から歌う曲をメモしておく必要があったが、ようやく整理してみる気になって、よく歌っている曲から何度か歌ったまあまあ歌える曲まで並べてみた。備忘録として列記しておくべし (順不同)。
……それにしてもまあ、古い曲ばっか😅
歌ってよ、とせっつかれると、「そうねえ……うむ。ほら、イントロが尺八の東北の歌があるでしょ。あれですよ、あれっ!……下関出身の高校野球選手の……」。みちのく一人旅が出てこない、山本譲二が出てこない”(-“”-)”。それでも日本の歌ならまだなんとかなるけれども、"記憶限界"にさしかかった今、洋楽はまったく覚束ない。歌手名も曲名もはるか遠くに消えてしまって、いったん思い出せなくなると、頭をぶん殴っても絶対に浮かんでこないのだ。
そんなだから前々から歌う曲をメモしておく必要があったが、ようやく整理してみる気になって、よく歌っている曲から何度か歌ったまあまあ歌える曲まで並べてみた。備忘録として列記しておくべし (順不同)。
……それにしてもまあ、古い曲ばっか😅
(2016年4月30日)
縮れっ毛のこと
白状すると、私は主に3つのペンネームを使っていろんな雑誌にいろんな話を書いてきた。小説やエッセイに加え、漫画の原作もかなりやった。*文末付記
その一つ。随分昔に漫画週刊誌でやわらかい内容のコラムを連載していたことがあって、冒頭で「白状すると」とわざわざ断ったのは、モロエロではないけれども、かなり色い話を盛り込んで書いたこともあったからだ。
当時の掲載雑誌類を私はほとんど保管してこなかったから(つまり書きっぱなしにしていたということなんだね)、思い出しながら一例を再現してみると、まあこんなこと。……陰毛に関するいい加減な話で、どうしてこれが縮れているかということを言語学的(?)に説いたものなんか、だ。
さて、なぜ縮れているのか。
答えは簡単。要するにパンツパーマがかかっているんだよね。
オチを説明するのもなんだからそのまま話を展開させてもらうが、マジにとらえて、じゃ、パンツを穿いていなかった頃はどうだったかという突っ込みが入るかもしれん。そんな疑問に対しては、断言してあげてもいい、もちろん直毛だったよ。サルマタやパンツの繊維で擦れてなかったんだから。
そこを隠していなかった頃といえば、石器時代よりはるか昔。何百万年前のミッシングリンクの時代だろ。その頃の陰毛の標本など出てきっこないのだから、私は強気でそう言えるわけだ。しつこい人がいて、じゃゴリラやチンパンジーのそれは? などと言い出す輩まで相手にする必要はあるまい。私はゴリラのそこなどじっくり観察したことがないし、弱気になってしまう懼れもあるからね。
もうちょっとこの理論(。´・ω・)?を展開すると、人類の進歩は「火を使いはじめたから」だとか「言葉を話せるようになったから」だとか、古来もっともらしいことが言われてきたけど、重大なことを抜かしているよ、と学者さんたちに私は力説してやりたい。ヒトがそこを隠すようになったことが、文明の発展をどれほど大きく左右してきたかということだ。
隠されている部分はどうなっているのか? というこの悩ましい妄想がどれほど大きく人類の想念、ひいては思考・思想を(複雑に)発展させてきたことか。学界で私のこの大いなる仮説・提言を真面目に取り上げてくれることを望んでいる。
驚いたことに後に活字の大雑誌で、わが理論とはちょっと違う話ながら《パンツパーマ》という同じ言葉を使ったオチがあげられていたことがあった。ほら見ろと自説の優位性に自信を持ったと同時に、彼我のヒマ人が考えるダジャレはこの程度なんだなとがっかりもさせられたものだ。
この縮れっ毛、たまに風呂に浸かっていて浮かんでいるのを発見することもある。これの元の所有者について、他人なのか自分のか、男性の物か女性の物かということも大いに気になるところだけれど、では言語学的にこれを何というのか。
勘のいい人はわかるよね、そう、オフロ(アフロ)ヘアーだ。
陰毛ほど重要な扱いは受けないけれども、腋毛も縮れている。これは何というか。うむ、おっぱいの脇(側)にあるんだから……ソバージュでしょうが。ちょっと苦しいかな、これ。
……こんなヨタ話を紙数を使って原稿料稼ぎのためにくどくど展開させ、似たような話を別の雑誌でも流用したりしたのだから、私も若い頃は相当図々しかったものだ。今や恥ずかしながらこれ以上こんな話を発展させるほどの勇気も気力も失った。老いたということなんだろうかねえ。寂しいような気もするが、恥の上塗りをこれ以上重ねることを防ぐということでは、老いもまあ悪くはないか。
【*付記】 よく聞かれることだが、私は四十代の半ばに小説や漫画原作など得意にしていた作り話に意欲をなくし、書くことをやめた。身近で大切な人を不治の病で4年の闘病の末に亡くして、その時に作り話が一切書けなくなった。作り話そのものを身体が受け付けなくなったというか、書くことはおろか、他人の作品も読めなくなったのだ。それからの三十年は仕事の方向を変えて書いてきたけれども、このことについては別の機会にくわしく述べることもあろう。
(2016年1月3日)
白物おでん
おでんで熱燗一杯の季節となって、昨夕は今冬はじめてこれをやった。例年よりかなり遅い。地球温暖化が食の歳時記を少しずつずらしているということなんだろうか。
15、6年ほど前、新聞社の人たちが集う句会に誘われて月一で1年ぐらいお付き合いしたことがあった。内内の俳号は左右惜(そうせき)。付き合い、という程度だからあまり熱心な会員ではなかったが、その会では短歌も一首だけ投句(投首か)する決まりになっていて、あるときその選句の座で話が春の七草に及んだ。
「芹なずな 御形(ごぎょう)はこべら 仏の座 すずなすずしろ これぞ七草」というあれで、覚えやすく和歌調になっているという話。平安時代に四辻善成左大臣が詠んだというような講釈があったが、そんなことはまあいい。よしそれではと、その右折禁止の交差点のような名前の昔の大臣に対抗して、お調子者のやつがれが即興的に詠んだのがこれだった。
がんもじゃがいも つみれはんぺん
まじめな人たちの集まりで、ほとんど失笑まじりのチョイ受けに終わったが、あとで私はけっこういい出来じゃないかと自分なりに評価し直した。「こぶたまご」「がんもじゃがいも」の韻のぐあい、「つみれはんぺん」と撥音で締めている小気味よさ。歌会始のようにこれに抑揚をつけ声に出して詠み上げるとさらに具合がいい。もうちょっと高い評価を受けてもいいはずではなかったか。
会ではこれ以後短歌でも三十字以内の自由詩でもよいとした。私はそれをいいことに悪ノリしてこんなのもやった。
「鍋、皿、ヤカンぜよ!」
昔、神田神保町の一本裏の通りに「いちこう」という旨いおでんの店があって、出版社勤めしていた若い時分には三日と空けず通っていた。昼飯を食べたり、飲んだり……。おばさんと娘さんでやっていたが、私の好物はふくろ(巾着)。 ほかのものより幾分値が張るけれども、なんともいい味をだしていた。おばさんが亡くなったという噂を聞き、もうやってないだろうと何年か経ってその通りを覗いたら、娘さん夫婦がちゃんと暖簾を継いでやっている。うれしかったね。昔の味をそのまま保っていて、「これが俺のおでん、なんだ」と何度も胸の中で頷きながら食べたものだ。
うちでつくるおでんには、はんぺんやちくわぶが大きな顔をして入っている。はんぺんはともかくとして、私のように西のほうで育った人間にはちくわぶというやつがどうも体質に合わない。口の中でぬちゃっとくる気色の悪い食感と、なによりこれのためにつゆが白濁するような気がしてよくない。
私は「白物おでん」とばかにして、入れないように何度も抗議しているのだが、敵は「家電じゃあるまいし……これがあるからおでんなんです!」とがんとして譲らぬ。あげく「おでんは関西では関東煮(だき)と言うでしょ。本場はこっちなんだからいやなら食べなきゃいいのよ」だと。
ちくわぶの代わりに牛すじが入っていればどんなにかうれしいのに、また今年も白物おでんが幅を利かす時がきて、私の年が暮れる。
うめ
いま、梅である。とても梅である。
どこからか、かそけく香りが届く。風のほうを見やると、垣根の向こうに梅花がちらりと見える。これがいい。開いた花々がわっと見えて、香りを探しに鼻を向ける。これもいい。
いったいに男というのは花に鈍い。私もそうだった。桜でさえも、花をこんなものかと目にするだけで、あとはどんちゃん騒ぎをするばかり。
梅のよさにやっと気づいたのが、40を過ぎたころだった。
京都・仁和寺の中庭のようなところを女と歩いていたら、ふと香る。その香りの先を探してみたら、私の背丈ほどの枝のない細木がぽつんとあって、てっぺんに大きめの梅花を何輪かつけている。ああ、梅なのか。これが、花の風情か……。
そんな話を6、7年前にちょっと書いたら、その梅を確かめにわざわざ東京から出向いたという人がいて、たまげた。それも、仁和寺まで二度も行ったんだと。
ちくわぶの代わりに牛すじが入っていればどんなにかうれしいのに、また今年も白物おでんが幅を利かす時がきて、私の年が暮れる。
(2015年12月15日)
うめ
いま、梅である。とても梅である。
どこからか、かそけく香りが届く。風のほうを見やると、垣根の向こうに梅花がちらりと見える。これがいい。開いた花々がわっと見えて、香りを探しに鼻を向ける。これもいい。
いったいに男というのは花に鈍い。私もそうだった。桜でさえも、花をこんなものかと目にするだけで、あとはどんちゃん騒ぎをするばかり。
梅のよさにやっと気づいたのが、40を過ぎたころだった。
京都・仁和寺の中庭のようなところを女と歩いていたら、ふと香る。その香りの先を探してみたら、私の背丈ほどの枝のない細木がぽつんとあって、てっぺんに大きめの梅花を何輪かつけている。ああ、梅なのか。これが、花の風情か……。
そんな話を6、7年前にちょっと書いたら、その梅を確かめにわざわざ東京から出向いたという人がいて、たまげた。それも、仁和寺まで二度も行ったんだと。
一度目は探せなくて、二週間後の花の時期にお寺の人に訊いてやっと見つかったのだそうだが、寺人は、そういえばありますなあ、梅の木が、といったほどの口ぶりだったらしい。
「なんでそんな……二週間に二回も!」
「だって、仁和寺は桜でしょ」
「有名ですよね、御室桜で」
「どうして仁和寺で梅なのか、知りたくて」
「奇をてらったわけじゃないですよ。仁和寺ではじめて梅のよさに気づいたのは確かなんだから」
「それが悔しくて行ってみたんです」
「悔しい? はあ……どうして悔しいんだろ」
「…………」
「で、梅の木はどうでしたか。大きくなっていましたか」
「あなたの背丈ぐらい……いやもうちょっとあったかしら」
「そう……じゃ、二十何年経ってもほとんど伸ばしていないんだ。……あの木は、やっぱりあそこに一本だけでしたか」
相手は返事を省いて頷き、ちょっと間をおいて口を開いた。「あの梅の花のこと……わたしにも分かるような気がします」
私には梅の木はたくさんはいらない。何本かでいい。
何某梅林というのも悪くはないが、そううれしくもない。
青梅の梅林には一年おきぐらいに行っていたけども、一昨々年もうあまり行く気がしなくなった。
十分に花がありすぎるくらいだったのに、さらにもう一つの山の斜面いっぱいに梅木を植えている。
「なんでそんな……二週間に二回も!」
「だって、仁和寺は桜でしょ」
「有名ですよね、御室桜で」
「どうして仁和寺で梅なのか、知りたくて」
「奇をてらったわけじゃないですよ。仁和寺ではじめて梅のよさに気づいたのは確かなんだから」
「それが悔しくて行ってみたんです」
「悔しい? はあ……どうして悔しいんだろ」
「…………」
「で、梅の木はどうでしたか。大きくなっていましたか」
「あなたの背丈ぐらい……いやもうちょっとあったかしら」
「そう……じゃ、二十何年経ってもほとんど伸ばしていないんだ。……あの木は、やっぱりあそこに一本だけでしたか」
相手は返事を省いて頷き、ちょっと間をおいて口を開いた。「あの梅の花のこと……わたしにも分かるような気がします」
私には梅の木はたくさんはいらない。何本かでいい。
何某梅林というのも悪くはないが、そううれしくもない。
青梅の梅林には一年おきぐらいに行っていたけども、一昨々年もうあまり行く気がしなくなった。
十分に花がありすぎるくらいだったのに、さらにもう一つの山の斜面いっぱいに梅木を植えている。
「そんなに増やすんですか」
訊いたら、担当者らしい人が別の斜面を指さしながらにっこりして答えてくれた。「ええ、まだあっちにも植えますよ。何年か先が楽しみです」
秘すれば花……世阿弥を読ませたいと、私は彼の屈託のない顔に対して思った。
青梅梅郷が木の毒(ウイルス)にやられて梅木1万本を伐採するという記事を読んだのは、去年(2012年)のことだった。
色をも香をも知る人ぞ知る
古今だっけ、新古今だっけ。紀友則だから……古今集だったな、たしか。
『風姿花伝』(花伝書)まで引き合いに出したので、それじゃお前はどうだ、「とても梅である。」などという言い方をしていいのか、と煩い向きにはとがめられそうである。
大丈夫でしょう、世阿弥は怒る気もしないでしょうから。私はそう答えるほかない。
世阿弥の時代、「とても」には「非常に」とか「たいへん」とかいった意味はなく、打消しの言葉でしかなかった。「とても美しい」などという言い方がすでに彼にとっては反則なのだから、「とても梅――」と68の風狂の爺が書いたことを知ると、苦り切ってもはや言葉もないだろう。今の時代に降りてきていただいて、新たに『風刺訛(か)伝』*でも書いてもらいましょうかね、拙筆の私めらのために。 ※訛伝=あやまって伝えること。まちがった言い伝え(広辞苑)。
麻雀牌のものがたり❶ 皇帝御牌
麻雀牌のものがたり❷ 天女散花牌
麻雀牌のものがたり❸ 桑港花辺牌
麻雀牌のものがたり❹ 青花児嬉図袁世凱陶牌
麻雀牌のものがたり❺ 仏兵捕虜の手製アルミ牌
麻雀牌のものがたり❻ 純銀製秘宝牌
麻雀牌のものがたり❼ 松樹下修身図犀角牌
麻雀牌のものがたり❽ ウイーン浮世絵牌
麻雀牌のものがたり❾ 巣鴨プリズン手製木牌
麻雀牌のものがたり➓ 龍1索翡翠牌
麻雀牌のものがたり⓫ カナダ石牌
麻雀牌のものがたり⓬ 梅蘭芳愛用牌
身内話のついでに
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身内話のついでに
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