名木宏之ブログ① 麻雀牌のものがたり

                  
     私家版「名木宏之ブログ」   
   
麻雀牌のものがたり

「遊びをせんとや生まれけむ」――これは平安時代後期に後白河法皇によって編まれた「梁塵秘抄」の中の有名な一節。「戯れせんとや生まれけむ」と続けられて、人間は遊び戯れるために生まれてきたようなものではないかと説いているのですが、これにはしかし深い示唆が含まれております。遊びだからといって"遊び半分"にいい加減に遊んでいては、遊びの本当の面白さはわからない。本気で大真面目に遊んでこそ初めて本当に遊び戯れることができるのだと、そう言っているように私には思えるのです。

*このブログは自分としては終わったこととして何年か前に一旦閉じたものですが、データが残っているなら再開してもらいたいとのお声をいただき、以前のままに公開することにいたしました。=含広告= (2025年8月)

*パソコン、タブレット、スマートフォンの全対応簡易編集のため、一部見づらい箇所もあるかと思いますが、ご容赦願います。

   成10(1998)年の夏、私は長い付き合いのあった出版社オーナー(故人)の依頼を受けて、麻雀博物館(休館中/オーナーの遺志により発祥地の中国に譲渡された)の立ち上げに中心メンバーとして加わった。

   私の役目は蒐集された3万点余の膨大な数量の麻雀に関する文物を人文学的・体系的に研究し記録することだったが、彼オーナーは私が麻雀の由来について知悉していたことを踏まえて頼み込んできたのであり、軽く断れないような雰囲気だった。当時進行中の仕事を抱えていたけれども、私以外にはこの仕事は難しいだろうな、という自負する思いも手伝った。

   開館予定は翌1999年の4月10日だという。その日は作家・色川武大(阿佐田哲也の筆名で麻雀小説を書いた)の十周忌にあたり、オーナーは故人を偲んでその日の開館にこだわったのだ。

   私も阿佐田哲也さんとは縁があり、二十代初めに出版社勤めを始めたとき最初に原稿をいただきに伺ったのがこの人だったというようなことから、かなり親しくさせていただいていた。
           
 そんなわけで、厳しすぎる日程ではあったけれども文句も言えず、98年9月、有楽町の東京国際フォーラムで没後十年記念展『色川武大・阿佐田哲也の世界』を5日間開催したのを皮切りに、文字通り不眠不休の日々を重ねて、ようやく予定通りの開館にこぎつけたのだった。

 私はその麻雀博物館の研究誌に、世界的にも貴重な麻雀文化財のいくつかを『牌のものがたり』という連載でエッセイ風に少しずつ書いた。ところが、それを本にまとめないうちに研究誌の発行が中断したために、書き継がないままになっている。

 そこでこの欄を利用して、前に書いたものに手を加えつつ新しい原稿もまとめてみようと思う。途中で別の話を挿入したりすることもあるだろうが、そこは私流。思いつくままに……

【筆者プロフィール】
 名木宏之(なぎひろゆき) 文筆家・出版プロデューサー。1944年広島生まれ。広島大学理学部(数学科)在学中はボート(漕艇)選手として活躍する一方で著作をはじめ、4年時に中退。東京の業界紙記者・コピーライターを経て出版社・日本文芸社に入社し、雑誌編集部のち書籍編集部に勤務。74年に独立して著作と出版プロデュース、アートディレクションを手掛け、多くの話題書・ベストセラーを生み出すとともに、国内外で新雑誌7誌を世に出した。キャリアを通して複数の筆名を用い本名での活動は少ない。亡妻(1990年没)との間に1男1女。
 ●筆者メール shoubunn@gmail.com


【CONTENTS】
麻雀牌のものがたり❶ 皇帝御牌
麻雀牌のものがたり❷ 天女散花牌
麻雀牌のものがたり❸ 桑港花辺牌
麻雀牌のものがたり❹ 青花児嬉図袁世凱陶牌
麻雀牌のものがたり❺ 仏兵捕虜の手製アルミ牌
麻雀牌のものがたり❻ 純銀製秘宝牌
麻雀牌のものがたり❼ 松樹下修身図犀角牌
麻雀牌のものがたり❽ ウイーン浮世絵牌
麻雀牌のものがたり❾ 巣鴨プリズン手製木牌
麻雀牌のものがたり❿    龍1索翡翠牌
麻雀牌のものがたり⓫ カナダ石牌
麻雀牌のものがたり⓬ 梅蘭芳愛用牌
麻雀牌のものがたり⓭ 菊池寛「文藝春秋牌」
麻雀牌のものがたり⓮ 福禄寿花辺牌
麻雀牌のものがたり⓯ 麻雀のミッシング・リンク 昇官牌
麻雀牌のものがたり⓰ 金漆銀嵌円卓
麻雀牌のものがたり⓱ 蟹と金魚の風雅牌

■コラム「風媒花」(名木宏之ブログ)

■身内話のついでに(名木宏之ブログ)               
  
 

  五彩螺鈿づくりの「皇帝御牌」男牌(写真上)と女牌(下)  

 麻雀牌のものがたり①
 ラストエンペラー愛新覚羅溥儀の
 五彩螺鈿「皇帝御牌」

     文/名木宏之(なぎひろゆき)

《……(大晦日の)この日だけは、ふだん禁じられている双六や麻雀などの遊びも解禁とあって、男は男同士、女は女同士で、皇帝から頂いた「押歳銭(ヤーソエチェン)」を使って賭けに打ち興ずる。 この「押歳銭」という賭け金は五十銭銀貨を三寸位(約9センチ)の高さに重ねて、皇帝の色である黄色の紙で包み、その上に「年年歳歳」と書いた赤紙が貼ってあるという凝ったもの。賭けに勝った数だけいただかれるが、これはいよいよ困った時しか使用できない金である。皇帝が困っている皇族たちに下賜される臨時のボーナスという意味もあるのだろうが、中国らしいおおらかな風習であった。》(『流転の王妃』愛新覚羅浩著・1959年文藝春秋新社刊/カッコ内は筆者=名木)


 ●時代に翻弄されたラストエンペラー
 激動の20世紀を清朝のラストエンペラーとして生きた愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ/下写真)は、時代に翻弄されてじつに数奇な運命を辿った。
           
 彼は1906年、第2代醇親王の第5子として生まれ、3歳のときかの西太后の指名により清朝最後の皇帝=第10代・宣統帝に即位。しかし3年後の1911年、孫文らの辛亥革命により皇帝の座を追われた。

 新政府・中華民国の〈清帝辞位後の優待に関する条件〉によって「皇帝」の尊号と紫禁城で生活しつづけることは許されたものの、外の世界とは隔絶され、権力も奪われて、ほとんど幽閉に近い生活を余儀なくされた。

 そうして1924年にはその優待条件も廃止され、溥儀は追われるように紫禁城を出て実家の醇親王府に移り、27年、日本公使館の保護のもとに天津の外国人租界に逃げ込んだ。日本関東軍の誘いに乗って中国東北部の新京(現在の長春)で満州国皇帝として君臨したのは1934年から太平洋戦争終戦の45年までである。
   その後はシベリア抑留を経て新生の中華人民共和国に戻り、1967年、62歳で亡くなるまで平民として生きつづけた。

 冒頭の引用文は、溥儀の弟・溥傑に嫁いだ日本人妻・愛新覚羅浩(元・嵯峨公勝侯爵の長女)の自伝書に書かれたもの。紫禁城の中で麻雀が行われていたことは他の文献にもいろいろ書き残されているが、日本人に馴染みのある浩の証言をここでは取り上げることにした。
                 
 その浩が愛新覚羅溥傑と日本で結婚し、夫妻で満州に渡った(帰国した)のが1937年だから、彼女の宮廷内麻雀の記述は満州国・新京でのこととなる。【上写真】愛新覚羅溥傑と嵯峨浩の結婚の儀

 このとき彼女が麻雀を見たり打ったりした際に実際に使用したのが、麻雀博物館に収蔵されている五彩螺鈿づくりの『皇帝御牌』である。

 浩が「男は男同士、女は女同士」で麻雀をしたと書いているとおり、『皇帝御牌』は大ぶりな〈男牌〉と小ぶりな〈女牌〉の二つのセットが黒檀五彩螺鈿細工の牌ケースに納められている。

 そうして麻雀の勝負決済を点棒で行わず皇帝から下賜された「押歳銭」という祝儀を賭けてやったと記述しているとおり、この牌のセットには点棒が一切入っていなかった。                  

 ●奇跡的に散逸を免れた歴史証言牌
 この麻雀牌セットが麻雀博物館に収蔵されるまでには深く微妙な事情と経緯があった。といっても、もちろん正規の道筋で入ってきたことには間違いないのだが、ここでそのルートを明かすわけにはいかない。

 これは中国近世史を証言するまことに貴重な資料であり、中国のある文学者などはこの牌を目にするなり絶句して、「これは中国の国宝級のものです。これが中国になく、日本にあるということが(中国人として)恥ずかしい」と呟いた。

 文化大革命の厳しい時代に、まっ先に破壊されるはずの〔走資〕の結晶のようなこの宝物が、よくぞ散逸も破壊もされることなく完全な姿で生き残ったものである。

 それを思うと奇跡としか言いようがないし、貴重でありすぎるゆえに出元を明らかにできないというジレンマも生ずる。溥儀に非常に近かった近親者によって大事に保管されていたとだけ、ここでは言及するに留まろう。

 その最終保管者のメッセージによると、この牌は「紫禁城から天津、新京と宮中にずっとあった」ものだという。

 造りか らすると1900年代の初めにつくられたものだと思われるが、とすれば、溥儀が清朝最後の皇帝に即位した時にはすでにあったか、あるいはその前後に紫禁城に持ち込まれたものだと推測できる。



 溥儀自身は麻雀を打ったのかどうか。浩が宮廷内でふだんは麻雀が禁じられていたと書いているとおり、ある時から溥儀は麻雀を打たなくなった。宮中(写真上/現在の故宮)で麻雀禁止令を出したりしたくらいだから、自身はかなりの決意をもって麻雀から離れたことがわかるが、それまではよく麻雀を楽しんでいたと多くの文献にある。

 その「ある時」というのは、1928年の〈東陵事件〉だ。溥儀が天津の外国人租界にいたとき、賢帝で名高い清朝第4代皇帝・乾隆帝と西太后が眠る北京郊外の東陵という墓所が国民軍によって襲撃され、めちゃめちゃに侵奪破壊される事件が起こった。溥儀は自身の帝座が危うい時期でもあって大変なショックを受け、以後復活のために自らを律して好きな麻雀を絶ったと当時の宦官らは書いている。

 溥儀が宮中で麻雀を楽しんでいた頃に愛用された御用牌こそが、のちに浩も使用したこの『皇帝御牌』なのである。

 この牌のセットは、牌も収納箱も黒檀背に夜光貝の精巧な五彩螺鈿細工が施されている。〈五彩螺鈿〉は清朝・康煕期(1661~1722)に始まった装飾技法で、以後清朝の貴人は好んでこの五彩螺鈿の陶磁器や家具調度を用いた。*上写真は収納箱側面の五彩螺鈿「児嬉図」

 牌身そのものは牛棒骨(太腿の骨)で変哲のない彫りに見えるが、豪華な装飾を加えていない分、かえって厳かな気品を感じさせる。その1牌1牌の細工模様がまったく同じで見分けがつかないところに、この牌の凄さが醸されるのだ。     

 愛新覚羅浩は1987年、北京で73歳の生涯を閉じた。

 遺骨は翌年日本に帰り、先祖の縁があった山口県下関市の中山神社の境内摂社・愛新覚羅社に、天城山心中(昭和32年)の長女・慧生とともに眠る。

 日中の懸け橋としてあり続けた〔流転の王妃〕浩が宮中で貴族たちと親しんだこの牌は、いま日本にある。彼女がもし故国でふたたびこれを手にすることがあるならば、いったいどんな感慨を示すだろうか。

 この牌は貴女の魂を追って日本にやってきたのですよ――と、そんなことは現実的ではないとしても、私ならそう説明してさしあげるだろう。 (文中敬称略=以下同/初出=2005年1月「麻雀博物館会報」)

【皇帝御牌】―― 1900年代初期製/牛骨製・黒檀背/男牌・縦30.5 ㍉ ×横21.0 ㍉ ×厚さ14.5 ㍉ (象牙の厚さ6.0 ㍉)

                          


    故宮(紫禁城)余聞     


 2006年10月、私は北京の故宮(紫禁城)の奥の院に入る幸運を得た。

 紫禁城は現在、故宮博物院として一般公開されており、私はその4年前には上海交通大学の先生に、さらにその7~8年前には北京の編集者に連れられて見学したが、今回はちょっとちがった。麻雀の古い遊具が相当数出てきたのでそれらを鑑定してもらえないか、という故宮博物院からの要請があり、麻雀博物館の調査団の一人として私も加わったのだ。

 故宮はとにかく広い。部屋数がおよそ9000もあるといえば、その規模がどんなものかお分かりだろうが、そのうち現在公開されているのは4割ていど。開かずの部屋がまだたくさん残っている。その部屋のいくつかから麻雀の牌とか卓とかが見つかり、博物院側はそれらの年代や文化財としての価値などを詳しく把握したいということだった。

 一般見学者は午門といわれる正門(世界最大の城門)の前にある通用門から入場する。私も前2回は当然そこから入ったが、こんどは先方の招きなので、中南海(中国要人の住むエリア/写真Aの左上の池に囲まれた所)から特別に西華門を通って鑑定する部屋に入った。

 私たちはそこで麻雀牌を30組以上、麻雀卓を20卓ほど丁寧に見たが、皇帝が使った麻雀博物館の「皇帝御牌」ほどにはいかないにしても、さすがに宮廷で使用されたものだけあって、上品かつ美麗な牌や卓ばかりであった。博物院ではこのうちの一組を「鳳光室」という部屋で開催される「ラストエンペラー展」に展示するという。
 
 この牌は清代光緒期(1875-1908)まで遡れる古いもので、あとで同じ種類の牌について書くことになるけれども、風子牌は東南西北でなく「公」「侯」「将」「相」、三元牌は白發中でなく「龍」「鳳」「白」という珍しい古牌。鍵付きの収納箱の蓋には「吉羊(祥)」の文字がある。羊は古くから吉を呼ぶ動物として崇められていた。(上写真)

 調査を終えた夜、私たちは故宮博物院の研究スタッフと宴席を囲んだ。

 博物院側からは麻雀博物館の麻雀研究の奥行きの深さに感心したむねの話があり、両博物館が姉妹提携して今後研究の質を上げていきたいという申し出があった。こちらももちろん異論はない。

 私もスピーチを求められたので、「トランプやダイス、ドミノなど世界で遊ばれる卓上ゲームのほとんどが中国をルーツにするとおり、中国はかつて遊戯の先進国だった。麻雀も中国で発祥した至高のゲームでありながら、一時期その本場で軽視されるという不幸なことがあった。いま故宮でその価値をもう一度見直そうという風が吹き始め、喜ばしいことだと思っている」といった話をした。

 そんなこともあって、中国文化院ではいま麻雀をユネスコの世界文化遺産に登録すべく準備を進めている。私にも協力を求められているが、雑駁に集めた知識でも少しでもお役に立つことがあるのならうれしい。
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麻雀牌のものがたり ②
麻雀古書に記された
幻の名品『天女散花牌』

《……花牌は麻雀一組に四個又は八個付随しています。絵は千差万別で一定したものではありません。しかし必ず絵の中にはその絵に相当した字が一字刻まれています。四個一組で一座といいます。二座ついているものは一座ずつ同じ色の文字になっています。
 一座の四字合わせて一句になり、例えば春夏秋冬、梅蘭竹菊、山間名月、江上清風、琴棋書画、晴耕雨読、あるいは嫦娥奔月、天女散花などという類いのものです。これを使うには文字の順序を覚えねばなりません。例えば春夏秋冬とあれば初めの春より順に荘家(親)、南家、西家、北家の役牌になるのです。これを座花といいます。》 (『麻雀競技法』中村徳三郎著/1924年・大連千山閣書房刊 原文は旧かなづかい 太字およびカッコ内は筆者=名木)

 ●ロンドンの骨董店で発見
 平成10(1998)年、まだ麻雀博物館が形になっていないときに、この「天女散花牌」(写真上)を目の前にして涙を流さんばかりに感動した一人の男があった。浅見了。名古屋に在住する当代一の麻雀碩学で、熱心な麻雀文化財のコレクターでもある。

 彼は麻雀博物館創設の発起人の一人であり、打ち合わせで飯田橋の竹書房会長室を訪れたところで偶然、ロンドンから届いたばかりのこの牌に面会することになった。
「嫦娥奔月、天女散花……はあー……この牌が出てきましたか!」
   彼はそう言ったきり押し黙り、目を潤ませて牌に見入った。この牌こそが彼が長年追い求めていた古牌だったのだ。

 引用した『麻雀競技法』の花牌の件(くだり)を、彼はそれまで何度目にしていたことか。この本は大正13(1924)年に『支那骨牌 ・麻雀』(林茂光著・華昌號刊)とともに日本人による初めての麻雀教則本として出版され、日本の麻雀揺籃期に麻雀愛好家のバイブルとして読まれた名著である。
 その本に紹介されているさまざまな花牌文言の古牌を彼は何度も目にし自分で蒐めてもいたが、「嫦娥(こうが/じょうがとも)奔月」「天女散花」という花牌をもつ麻雀牌だけはいくら探しても見つからなかった。あまりに出てこないものだから、この牌の存在さえ疑いかけていたのだ。特別に美しい響きをもつ文言であるだけに、著者・中村徳三郎のつくり書きではないかとまで思った。

 その夢にまで見た、浅見にとっては幻の牌が現実に眼前に出てきたものだから、彼の驚きはいかばかりだったか。そうして、その牌の言いようのない美しさに息を呑んだ。さらに感激することに、136枚と花牌8枚が1牌の瑕疵も欠損もなく保存されている。
 しばし言葉を失ったまま牌に見入っていた浅見は、紫檀・浮彫りの見事な細工の箱型収納箱(写真)をそれこそ宝物を扱うように丁寧に鑑賞し検分した後、ようやく口を開いて野口恭一郎(故人・麻雀博物館創設者・元竹書房会長)に訊いた。
「どこで……この牌が見つかりましたか?」
「ロンドンですよ。骨董店にありました」
「ほお……ロンドン、ですか」
 浅見はそれからまた口をつぐみ、いつまでも飽くことなくこの美牌に見入りつづけたのである。麻雀の奥まで知り抜いている男だからこそ持つ一段上の感動がその場を包んでいた。

 ●希少花牌がなぜ古書に書かれたか
 この花牌の文言「嫦娥奔月」「天女散花」は、ともに京劇の有史以来の大スター・梅蘭芳(メイランファン/1894-1961)が演じた中国神話に基づく人気演目である。


 「嫦娥奔月」の嫦は 「姮」とも書き、中国晋代(265-420)の『捜神記』(千宝著)に題材を採る月の女神(天女)の話。日本の竹取物語の原典だ。梅蘭芳はこれを1915年、21歳時に北京吉祥園で初演し、スターの足場を築いた。
 天女散花の「散花」は「散華」とも書き、日本では「さんげ」と読む。菩薩や釈迦の大弟子らが法(真理)を行うときに天女が降らせた花が大弟子の身体にくっついて落ちなかったという、仏典『維摩経』の一節を劇化したものだ。梅蘭芳はこれを1917年、23歳時に初演。ミュージカル風の斬新な演出で京劇界に革命をもたらし、のちの『覇王別姫』と並ぶ彼の十八番となった。
 〔注〕麻雀博物館には梅蘭芳が愛用した名品「遊龍戯鳳牌」(後述)が収蔵されている。

 いま「嫦娥奔月」も「天女散花」も、その言葉は女性の美しい姿態を示す代名詞とも使われ、「嫦娥奔月」は中国で切手などにあしらわれているし、「天女散花」も中国銘茶や打ち上げ花火などの品名、さらに中国人工衛星の名前にもなっている。日本の横浜みなとみらい日本丸パークには、その文言のまま「天女散花」という石像もある。

 そういったことを頭に入れてこの牌を見ると、また一段と美しく見えてくる。
   牌の左肩に洋数字とイニシアルが刻まれている(欧米の麻雀牌にはすべてこれがある)ので、欧米輸出用につくられたものであることは間違いないが、それにしても、短時日のうちに欧米の麻雀牌はなんという充実をみたことか。

 梅蘭芳が京劇「天女散花」を初演したのが1917年で、米スタンダード石油の中国・福州支配人J・P・バブコックがはじめて補数字入りの麻雀牌を欧米で売り出したのが1919年のこと。本格的に麻雀牌輸出が始まったのは1920年になってからだった。中村徳三郎が『麻雀競技法』を上梓したのが1924年10月で、中村の脱稿時期から推察すると、この牌は1920年初めから24年8月頃までの間に世に出たものと考えられる。バブコックの初輸出以来何年もしないうちに、欧米の麻雀牌はここまで昇華しているのだ。

 それにしても、と私はいま一度思う。中村徳三郎はこの牌の存在をどこで知ったのだろうか。彼はこの牌を実際に見たことがあったのか、なかったのか。

 

 先に触れたようにこの二つの文言を持つ麻雀牌は決して多くない。中村がその本で紹介した他の文言の花牌は麻雀博物館に数多く収蔵されており、量産されたらしいことがわかるのだが、この二つの文言の花牌は他に二つとない。麻雀博士の異名をもつ浅見了でさえ、これまでずっと探しつづけてきてまだこれ以外に見ていないというのだ。
 断言できないにしても、この牌は世界唯一無二のものではないか。私が知る限り現時点ではそうである。

 そのまさに希少の花牌を、中村はなぜ他のものと同じようにポピュラーな例として日本の読者に紹介したのだろうか。その時代の一般的な花牌文言なら、冒頭引用の文言のほかにも「福禄寿喜」だの「漁樵耕読」だの「八仙上寿」だの、いろいろ出回っていたにもかかわらず、彼はわざわざこの二つの文言を選んでいるのだ。
 中村はその原文で「嫦娥奔月」「天女散花」の前に「あるいは」という接続詞を挿入して他の文言との列記を避けている。特別にこれも紹介する、というようにもとれる文章で、彼の本意はじつはそこにあったのではないか。

 この牌の存在を噂で聞いたのか、写真で見たのか、あるいは実物を見たか。そのことをしるした記録はないので今となっては確かめようもないが、私は、中村がこれを実見したほうに賭けたいと思う。
 彼はきっとこの牌をどこかで見たのだ。そしてあまりの美しさに打たれ、これを本に書かざるを得なかったに違いない。

 肌合いが体温を伝えるような牛棒骨(太腿の骨)の乳白色の牌身に、細密な彫りと秀麗な彩色が施され、花牌にあでやかな八体の天女と1索に不老長寿の吉祥鳥・鶴が舞う。天女と1筒の竜、1索の鶴には金箔が施されているが、それも成金趣味のいかにも金ですというのとは違って、さりげない高級感を醸し出している。

 この天女散花牌に対面するとき、私はつねに何かこう、感謝に似たような気持ちが湧いてくる。それは、麻雀の素晴らしく奥深い歴史と文化に対するありがたい思いと、この牌を1枚も損なうことなく美しく保存してくれたおそらくヨーロッパ人であろう愛好家への、敬意と感謝の思いにほかない。 (文中敬称略/初出=2005年4月)

 【天女散花牌】――1920年代初期製/牛骨製・竹背/32.0×21.5×14.0(骨厚9.0)




  
麻雀牌のものがたり③
米国〔黄金の20年代〕の
豪華絢爛「桑港花辺牌」

 ●「マージャンもよく売れた
 身内の話を持ち出すのは気が引けるのだが、私の母方の祖父母(竹広鶴次郎・マサノ)は20世紀はじめに20年ばかり、米国サンフランシスコ(桑港)で東洋美術商を営んでいた。祖父が写真を勉強するため単身でアメリカに留学し、そのまま居着いて商売を始めたのだ。
 自宅は郊外のパロアルト*という街のスタンフォード大学の近くの大学路にあって、母はそこで生まれた。 
*パロアルト――米国屈指のスタンフォード大学を有し、現在はシリコンバレーの中心地として知られグーグルやフェースブックの拠点がある。

 折から東洋美術の大ブームで、祖父母は商売を相当手広くやっていたようだ。
   そのために白人社会から疎まれるようになり、ちょうど〔黄禍〕がいわれだした頃、日本人排斥の嵐が吹き始める前に店をたたんで日本に帰った。そして持ち帰ったレコードや輸入盤を増やして、東京・神田で日本初のジャズ喫茶『東亜』を開いたり呉服商をやったりした。

 祖父は終戦後まもなくの昭和23年に亡くなったが、祖母は広島でわりと長生きした。家が近かったこともあって、私は子どもの頃から祖母のところへよく遊びに行った。話を聞くのが愉しかったし、何よりワッフルを焼いてくれるのがうれしかったのだ。
 おふくろも当時はまだ珍しかったケーキだのパイだのクッキーだのをつくってくれたが、面白い形のプレートで目の前で焼く祖母のワッフルはまた特別の魅力があった。孫の私に気前よかったせいもあろう。

 駐留軍(当時は進駐軍といった)が近くに来たりすると、街の人が祖母のところに通訳を頼みに来る。ガイジンとペラペラ英語で談笑しているのを見て、バアちゃん何者なんだ !? と、幼心に畏怖を感じたこともある。
 私が大学生になって麻雀を覚えたての頃、祖母はまだ達者で、アメリカ話を聞きたがる私にこんなことも言った。サンフランシスコの店では浮世絵やら仏像、陶磁器やらが「おもしろいように売れた」が、「扇子やマージャンもよく売れたよ」
 彼女の言うマージャンとはもちろん、麻雀牌セットのことだ。

    【写真】20世紀初めのサンフランシスコの東洋美術店(人物は筆者の祖父母と、間にいる幼児が母)。右下隅のショーケースに麻雀牌らしきものが見える。

 ●骨董店の片隅にひっそりとあった
 博物館開館の前年、野口恭一郎(故人・麻雀博物館創設者)は麻雀文化財の蒐集で世界を飛び回っていて、アメリカ西海岸の蒐集旅行では多くの〔掘り出し物〕を手にして帰ってきた。
 その一つがこの「桑港花辺牌」で、彼はよほどこの牌に自信があったらしく、どうだ、と言わんばかりに私と鈴木知志(故人・元麻雀博物館副館長)の前にガバッとこれを広げて見せた。
 なるほど凄い牌である。私も鈴木もしばらく口がきけないほどに驚いた。

 「この牌はね……危うく見逃すところだったんです」
 と、野口は手柄を褒められたい子どものような顔をして言った。聞くとこうだ。
 彼はサンフランシスコのめぼしい骨董店をしらみつぶしに歩き回り、あそこなら(古い麻雀牌が)ありそうだ、という情報をもとに7軒目の店に入った。ところが、店頭に展示されているのは焼き物などの高価な美術骨董品ばかりで、麻雀に関係する物は一切見当たらない。
 店内をひと回りし、ここも駄目だな、と見切りをつけて店を出ようとしてふと玄関口の上の棚を見上げると、んん! 雑多な物が積み上げられた中に埋もれるようにして、彫金の麻雀牌ケースらしき物がひっそりとあるではないか。

 
 急いで降ろしてもらって中身を見る。と、これが驚くほどの〔上物〕だったのだ。野口は口の中が乾くほどの興奮を覚えたが、店主にそれを悟られないよう、胸の鼓動を抑えるのに苦労したという。

 店にしてみれば、麻雀ブームだったのははるか昔の話、古い麻雀牌に興味をもつ者など少なく、どんなに美しい出来の牌であろうと雑器の類いでしかない。高くも安くもない適当な値段を言って、いかにも早く持って行ってくれと言わんばかりの対応に終始した。
 こういった風景は、じつは麻雀博物館が誕生するまではよく見られたものだった。今はそうはいかない。世界各地の骨董店やオークションで、古い麻雀具は格段に高くなってきているのだ。蒐集する側はやりにくくなったにしても、麻雀牌が文化財として正当な評価を得られるようになったということで、反面喜ばしいことでもある。雑に扱われて散逸したり破損したりしなくなっただけでもいい。

 ……私は野口のサンフランシスコ土産話を聞きながら、祖母の昔の言葉を何十年ぶりに思い出し、もしかしてこの牌、祖父母が扱った物ではなかったかと、別の空想にとらわれていたのだった。

 ●アメリカ麻雀史が違うのか
 ところがまあ、これは私の勝手な空想でしかないわけで、この牌と祖父母を結びつけるのはむずかしいということが調べてすぐにわかった。わずかに時期がずれているようなのだ。
 祖父母がサンフランシスコから日本に引き揚げてきたのは、明治45(1912)年生まれの母が満7歳の時で、尋常小学校の新学期の編入に間に合ったというから、1919年の6月(誕生月)より後で20年4月より前である。

 当時、日米間は船便しかなく、母の記憶によれば、日本に近づくと「ニッポンだ!」という叫び声が聞こえ、水平線の先にまっ白い富士山が浮かぶように見えてきたという。冬季の何月かに横浜に着いたということだ。

 J・P・バブコック(前出)が中国からイニシアル入りの麻雀牌の欧米輸出を始めたのは1919年だったが、本格的な販売普及は20年に入ってからだった。それからすると、祖母の言葉は合わない。ちょっと早すぎるような気がする。

 「マージャンも〔よく〕売れた」
 と、彼女は50年近く前、確かに私にそう言った。これは絶対に間違いない。私はそのころ覚えたてで麻雀漬けの日々を送っていた。「バアちゃんがアメリカで麻雀牌を売った」というのは、大変インパクトのある話だったのだ。

 祖父母の帰国時期を最も遅く想定しても、1920年2月にはサンフランシスコを出航していなければならない勘定だが、麻雀史ではその時にはまだそれほどブームにはなっていなかった。祖母の店で麻雀牌がよく売れるようにはなっていなかったはずなのだ。
 これはどういうことなのか!?  祖母がありもしない話を私に言ったか。アメリカ麻雀史がずれているのか。

 祖母はそれから2年後に亡くなった。もっと詳しく聞いておけばよかったと、今更ながら悔やむ。母は広島に存命しているが、遐齢にして耳が遠い。アメリカでのことを今更聞いても私が得心するような話には至るまい。

 この疑問を検証するなら、アメリカで麻雀が流行する前から在米中国人の間ではさかんに麻雀が行われていて、彼ら相手に麻雀牌が売れたと考えるのが普通だろう。

 だがそれも、祖母の言葉を思い出すと違うのだ。祖父母の店には東洋人の客はこなかったと言っていた。こなかったというより、祖父母のほうで敬遠していたというのが正確だろう。いやな話だが、祖母はこういう言い方をしていたのだ。 「日本人や中国人が出入りする店には、アメリカ人は入らなかったからね」

 
 ならば答えは一つしかない。アメリカで麻雀は西海岸でまず流行して、全米に広まった。 
   国際都市のサンフランシスコでは、麻雀史にあるより前からアメリカ人の間で麻雀が行われていたのではなかったか。バブコックはそういった〔下地〕があるのを知っていたからこそ、麻雀牌のアメリカ輸出を思い立ったのではなかったか。

 私は実際に聞いた祖母の言葉のほうを信じるから、当時の当地の資料を丹念に洗うとそういった新事実が出てくるのではないかと思っている。
【上写真】欧米では日本より少し早く1920年代初めに麻雀が大流行した。この写真は「麻雀に興ずる貴婦人たち」としてアメリカの雑誌(1923年)に掲載されたものである

 ●祖母の言葉は正しかった
 ……といったことを、私は8年前に書いて発表した。
 そして、この「桑港花辺牌」が祖父母の店を経由してアメリカ社会に届き、それが日本に戻ってきたという空想物語を頭に浮かべて、胸躍るような気持ちを書いた。

 ところがはたして、その後困った事実が出てきたのである。
 どういう事実か。結論的には祖母の言葉は正しかったし、アメリカ麻雀史も間違っていないということなのだが、私はそれを胸を張って言うことはできない。あっさり白状すれば、私の勘違い・記憶違いだったのだ。胡乱(うろん)にすぎて、ともかく恥ずかしい。

 身内の話を出すとつぎつぎとプライバシーを表に出すことになるけれども、母は100歳を過ぎてなお広島で健在している。しかし、耄碌(もうろく)はした。夢遊の世界と現実との間を行ったり来たりしているようだ。

 
 その母と去年、わりとしっかりしている時に話ができた。で、それとなく訊いてみたら、こういうことなのだ。
 「アメリカからの船が日本に近づいたとき、白い富士山が見えたと言ってたよね。7つの時の記憶がよくはっきりしてるもんだなあ」

 7歳の自分の記憶にははっきりしているものもあり、まったく思い出せないものもあり、あやふやなものだから、母の記憶はどうなのかな、といった疑問は前から持っていた。 *上写真は 当時の日本郵船北米航路の主力船「天洋丸」

 母はアメリカ・パロアルトの友達の名前を何人もはっきり覚えているし、フレズノとかロスガトスとかサクラメントとか、行った所の地名も覚えていて、何度も口にしていた。
「そう真っ白い富士山がね ‥‥でも、わたしが日本に帰ったのは8つの時よ」
「ええっ! 8歳だったの? 数えの8つじゃないよね」
「満、よ。満の8つよ」

 本当に物書きとしてこれでいいのかと猛省せざるを得ないが、間違った情報を何十年も頭の中にインプットしたまま、前の稿を書いて発表してしまったわけである。
 でも、弁解もしよう。身内のことでそれぐらいの記憶違いは誰にもあるのではないか。私は早くに実家を出た。だから、親との話もそんなに丁寧にできてきたわけじゃない。
   私が若いころには年配者は数え年の年齢を口にする人が多く、おそらく母が言った年齢を勝手に自動的に満年齢に換算してしまい、そのままになったということだろう。そうとしか考えられない。
 *母・静江 2018年2月没・享年105

 ●〔黄金の20年代〕に湧くアメリカ
 1年遅く日本に帰ったのなら、これまでの話はまったく問題がなかったことになる。
 アメリカに麻雀が入って流行りだした1920年の翌年まで、祖父母はサンフランシスコで商売をしていたのだ。アメリカ生活の終わりのほうだから、「マージャンがよく売れた」という記憶に間違いのあるはずがない。
 だからといって、私は前の原稿で書いたアメリカ麻雀史の前倒しの推論を引き下ろすつもりもない。アメリカ西海岸の麻雀ブームの火のつき方は、漢字含みの東洋文化でもあることだし、まったく下地なしにあれほどの速さで燃え上がるとは思えないからだ。


 1920年に本格的にアメリカでの麻雀牌販売が始まって、早22~23年には全米で大ブームとなっている。パーティーの二次会といえば決まって麻雀となり、ホテルには専用の麻雀ルームが作られた。バブコック以外にも麻雀牌の製造販売を始める業者が続々と現れ、ニューヨークタイムズ(上写真/1923年2月)には連日でかでかと麻雀牌大売出しの広告が掲載された。
 
 そういったことを知らない麻雀愛好家も多く 「えっ、日本や中国以外でもやってるの!」とことさらに驚いてみせる人もある。
 そういう向きには、日本より欧米のほうが先に麻雀人気が高まり、遊戯文化として尊重されたむねを説明するが、その私も全米中に一気に広まった麻雀伝播のあまりのスピードの速さには、分析が追いつかない。

「アメリカ人は、豪華な物が好きなのよ」
 祖母はそうも言っていた。店で好まれたのは、渋いわびさび趣味の物より一見豪華な物だったという。見栄っ張りだから、付き合うのに骨が折れたとも。日本人事業家が白人社会で伍してやっていくには、郊外に家があって、自家用車を持っているのが最低条件だったと。 これは祖父が言っていた言葉として母から聞いたことである。

 たしかに当時のアメリカは、19世紀後半の〔金ピカ時代(Gilded Age)〕から第一次世界大戦の落ち込みを経て、1920年からの空前の大繁栄期〔黄金の20年代(Golden 20's)〕を迎えたころだった。

 この「桑港花辺牌」は、その祖母の言葉をそのまま表わした、まさに黄金の20年代にぴったりの豪華きわまりない牌である。
 こういった装飾花辺牌(牌に草木や花の縁取り文様を彫り込んだもの)は、かつて欧米の富裕層や外交官、貿易商らがよく土産物や進物用に特別注文してつくらせたというが、それにしても、ただこれで麻雀ゲームを楽しむだけなのに、ここまで豪奢に気張らなくても、と思うし、その心意気がまたうれしくもある。この牌を見るだけで、当時のアメリカ人気質が分かったような気がするではないか。

 そうしてこの極め付きの豪華麻雀牌が、祖父母の店を経由してアメリカに入っていたとしたら……ああ、それを思うだけで心が躍る。その可能性は以前に書いたときよりもずっとずっと高くなったと思うのだ。
 芸術を好み最初期のフォード車に颯爽と乗っている祖父の1世紀も前のアメリカでの写真(下)を見ても、この派手な麻雀牌をアメリカに持ち込んだのはうちのジイさん以外にあり得ないのではないか――私は今そんなふうに思うようになっている。 (文中敬称略/2005年10月の初出稿に加筆)

 【桑港花辺牌】――索子(ソウズ)牌は中国南部にできる縁起のよい仏手柑という柑橘類。筒子(ピンズ)牌には不老長寿の団鶴(舞う鶴)。萬子牌の縁取りには胡蝶を配す。花牌の文言「済公活佛」「八魔闘法」はともに故事に材を得た京劇の題名である。この牌は2005年、ニューヨークのアジア・ソサエティ美術館において、欧米を代表する麻雀牌として貸出し展示された。1920年代初期製/牛骨製・竹背/31.5×22.0×14.0(9.0)

1910年代初め、自家用車=フォード1910年式モデルT-ツーリングに乗る
筆者の祖父(運転席の人物/後部座席の白帽子が祖母)。
背景は1894年、国際博覧会の際に造園されたゴールデンゲート・パークの日本庭園の建物と思われる
 1900年代初め、祖父はフォードの最初期モデルに乗っていた   





麻雀牌のものがたり ④
袁世凱 大総統が愛用した
青花児嬉図 景徳鎮磁器牌

 ●これ、全部焼き物ですか?!
 10年ほど前、世界的に知られる中国系米国人の物理学者の訃報が外字新聞に小さく載っていて、心にちょっと引っかかったことがあった。
 名を袁家騮という。中華民国初代大総統・袁世凱(えんせいがい)の孫で、この人の中国系の夫人・呉健雄が世界で初めての原爆開発に携わった唯一の女性科学者だった。かつての軍閥の影が孫の嫁にまで及ぶのかと、驚いたものだ。

 私は広島の出身で、一族のほとんどが市の中心部に住んでいたものだから、原爆で壊滅的な被害を受けた。
 母と兄と私(当時1歳)は郡部に疎開して無事だったが、父を失った。さらに母が原爆投下の翌日と翌々日、父や親戚の安否を尋ねて爆心地を歩き回ったものだから、二次被曝にやられ、戦後しばらく苦しんだ。

 しかし多くの被曝者が後遺症で長く辛い目に会ったのに、弱いと思っていた母が100歳を越したのだから、わからない。私も母に背負われて爆心地に長時間滞在し放射能の悪い影響をたっぷり受けたはずなのに、71のこれまでこれといった病気はしなかった。無責任なことは言えないけれども、放射能に強い体質、弱い体質というのはあるのかもしれない。

 そういったことがあるから、どうしても原爆の話には敏感になる。中国系物理学者の訃報にも、人一倍強い印象をもたされることになった。

 その袁家騮の訃報を見た日からほんの2~3週間後のことだった。
 用事があって野口恭一郎(前出)の会社の部屋を訪ねると、顔を見るなり彼は言った。
「いい牌が見つかりましたよ」
 こういう時の彼は何ともうれしそうな、そわそわした顔になる。100㌔の巨体のまさに事業家然とした風貌がころっと変わるのだ。
 麻雀(牌)がほんとに好きなんだな、この人は――と、その一途な熱心さには感心する。で、私も釣られるように、まだ見ぬ前から期待感を持たされてしまうのだ。

 目の前に出された牌はしかし、私のその期待をはるかに超えてすばらしいものだった。
「これ……全部、焼き物ですか! すごいなあ」
 牌の一つ一つをじっくり見させてもらおうと思っていると、野口は先を急ぐように牌の収納箱に目を遣り、いかにもそっちを見なさい、というような目顔になった。
「ほう……ケースも磁器張りですか!」
 感心していると、野口はさらにじれったそうにして言った。
「字を見てみなさい、字を」
 私はあっと一拍遅れで声を上げた。〈袁世凱大総統珍玩〉の焼きこみ文字が見えたのだ。
「袁世凱……あの袁世凱が持っていた牌なんですか!」

 ●落款の呉なる人物は誰か
 その時は気づかなかったのだが、後で私はあれっと別のことに思い当たった。この牌と収納箱が同時的に作られたものだとすっかり思い込んでいたが、違うのではないかと思うようになったのだ。
 自分で収納箱を特注したとしたら、自分の名前を入れて「大総統珍玩」と焼き込んだりするものだろうか。他者が袁世凱への贈り物として作らせたのなら分からないでもないけれども。ついでに言っておくなら、この「珍玩」なる言葉、「珍」は貴重なという意味で、大事に愛用したものをいう。

   
 何週間か後に麻雀博物館に行く用があったので、気になっていたことを確認するため、展示されたその牌の場所に急いだ。そして収納箱の側面の磁器板を見て、やっぱりそうだと私は確信した。
 「袁世凱大総統珍玩」のその文字とともに、「民国十七年春月」とあり、さらに最初に見たときには気にも留めなかったのだが、「呉」という落款が焼き込まれている。

 民国17(1928)年なら、袁が死亡した同5(1916)年より12年も後である。そしてこの収納箱を作った人の名も、呉とはっきり明示されている。牌と収納箱が別々に作られたことは間違いない。

 いろんな想像が頭を巡った。袁世凱が亡くなった後、呉なる人がこの牌を譲り受けてずっと保管・愛用していたが、そのままではその牌が袁世凱の所有物だったという証がどこにもない。それで、時期的にはそう、十三回忌を迎えるにあたり、袁の偉大さを偲ぶために収納箱を新造することにしたのではなかったのか。家宝として愛蔵するためにも。

 勘繰れば、袁世凱の名を騙って自分の持ち牌セットを格上げしたかと思えなくもないが、ま、それはないだろう。後で触れるけれども、中国の陶磁窯の事情がちょうどこの時期、受難期ともいえる最悪の状態だった。加えて袁世凱という人が、死しても中国の国内外でまことに評判が悪かった。「人民の敵」とまで言われていたのだ。

 そんな時世に袁世凱の名前を被せた手の込んだ焼き物の収納箱をあつらえたとして、誰がこれを貴重に扱うだろう。袁によほどの忠誠心を持っていなければこんなことはしないだろうし、人前に出すのではなく秘蔵するつもりでこの収納箱を作ったのではなかったか。

 そんなふうに考えていくと、この呉なる人物がとても気になる存在となった。呉とは誰なのか。
 この牌セットが中国の骨董商から入ってきたので元の持ち主を特定できない状態にあるが、袁世凱の愛用品を譲り受けるような人物となると、それなりに彼と近い関係で身分も高かった人ということになろう。
 同時代の著名な呉姓の人というと、まず浮かぶのが呉佩孚(1872-1939)である。山東省蓬莱の人で、軍閥。袁世凱の部下で頭角を現した 馮国祥の後輩だから、袁との縁由はかなり強く、この人が第一本命といえる。北洋軍閥直隷派の巨頭で相当な人物だ。  ※呉佩孚の愛用牌(『漆塗り犀角牌』)も麻雀博物館に収蔵されている。

 もう一人、あまり大物ではないけれども、呉銭孫という軍・警察畑の人がいる。袁世凱という人物はとにかく人望がなかったが、ずっと忠誠を尽くした人もわずかにあったようで、呉銭孫がその一人だった。

 当時の書『袁世凱』(佐藤鉄次郎著/1910年・天津時聞報館刊)にこうある。 
《袁世凱が抜擢した人間をみると百鬼夜行の感がある。(中略)これが袁が失敗した原因である。袁には袁の党などはない。誰もが袁を利用して立身出世するだけだ。ただし、袁に誠意を尽くした人間もいないわけではなく、袁が罷免されたとき異議を申し立てた学部侍郎(文部次官級)・厳修、警官を派遣して袁を護衛した天津巡警督弁・呉銭孫がいる。》
 この呉銭孫だったら、終生袁世凱に忠誠心を持ち続けたかもしれないが、残念ながらこの人の出自も袁との関係もよくわからない。

 ほかにも「四絶」と称えられた書画家の呉昌碵はじめ呉姓の同時期の著名人はかなりの数いる。しかしいずれも袁との接点が見出せないか袁より先に物故しているかで、候補者とはなり得ない人物ばかりしか浮かばない。

 ならば最初の二人のうちのどちらかだな。と、そう思いかけたとき、何か重要なことを忘れているような気がして、はて何だったかと頭の中で浮かべてみた。
 「呉」という姓で何かほかに引っ掛かりになることがあったかな……?
 こういうときに、歳をとって健忘が進むと、なかなか核心に近づけないのである。
 これを読んでいる人は、冒頭の袁世凱の孫の訃報の記事で呉という姓の人が出てきたことを覚えておられるだろうが、私がこの推理をつづけているときにはその新聞記事の内容などとっくに忘れてしまっている。外字新聞もすでに手元にはなく、女性物理学者の呉健雄などという人名はすでに頭の隅っこにもなくなっているのだ。

 だが私はずいぶん経って、なんとかこの人にたどり着くことができた。インターネットのおかげである。しかも偶然に。
 件の女性物理学者は「中国のキュリー夫人」と称される有名人だったので、彼女の記事はネット上でけっこう頻繁に出ている。で、なんかの拍子に突然、呉健雄の名前が私の頭にリンクしてきたのだ。  
 呉健雄(写真/ウィキペディア)なら、袁世凱の孫の夫人。大いに候補者たりうる。
 急いで彼女の出自を調べると、生まれは1912年で1997年に亡くなっている。
 なるほど……。麻雀牌収納箱が作られた年(1928年)には彼女はまだ16歳で、袁の孫とアメリカで知り合い結婚したのは1942年30歳の時だった。とすると袁世凱の没年次(1916年)からして、彼女がこれに関わったという線はまず消える。
 
 では彼女の父親だったらどうか。父親は呉仲裔という教育者だったということだから大いにあり得るが、はたして彼が袁世凱と人生のどこかで繋がっていたかどうか。彼の祖籍は中部の江蘇省太倉で、主に上海で活躍した人だから、北洋軍閥の袁とは接点が見つけにくい。

 そこまで調べたのだから、肝心の袁世凱の婚姻関係はどうだったかと今になって当ってみると、これがなんともはや。大変な精力絶倫ぶりで一妻九妾との間に31人(17男14女)もの子どもをもうけているのだ。

 それじゃ男の子孫に呉姓*の女性が何人関わっていたか見当もつかないから、結局は袁世凱の親族だったというつまらない推理結果に落ち着きそうだったが、袁が関係した10人の女性はと調べてみてさらにがっかりすることになった。正妻は於氏だが、なんと4人目の妾に呉姓の女がいるではないか。 *〔呉姓 〕中国では女性は結婚後も姓が変わらない

 ばかばかしい。下手な推理を延々と続けて、結局は一番つまらない線に落ちてしまったのだ。形見分けをしてこの麻雀牌を呉なる妾が獲得したという、たったそれだけの話だったのではないのか。彼女なら十三回忌の年に袁世凱を偲んで磁器板を焼いて収納箱を作っても、何ら不思議も疑問もなかろう。
 ここまでこの下手な推論にお付き合いいただいた読者にも申し訳ないが、ネット百科事典にも文句を言いたい。これを大真面目に調べているときに、ウィキペディアの袁世凱の項にはまだ配偶者の名前など載っていなかったのだ。彼の妾の名を記録した文献もまったく見当らなかった。

 ●「皇帝」の自分に贈った最後の贅沢
 袁世凱は中国近世史の第一級の巨魁である。小躯ながら大きな権力を得て、欧米では「ストロングマン」と呼ばれた。字(あざな)は慰亭、号は容庵。1859年に河南省項城に生まれ、2度の郷試(科挙)に失敗して、軍に入る。准軍で活躍して李鴻章(1823-1901/直隷総督・北洋大臣)の信任を得、朝鮮派兵で頭角を現した。

 義和団の乱(1899年) を鎮圧して清朝に認められると、当時の最高権力者・西太后に取り入ってうなぎ上りに出世し、ついに李鴻章の後を継いで直隷総督・北洋大臣(州知事級)に就任。1911年に辛亥革命が起きると、朝廷に反して孫文と妥協し宣統帝(ラストエンペラー・愛新覚羅溥儀)を退位させて12年に大総統となった。

 さらに国民党と国会の解散を行い、第二革命を弾圧。1915年、帝位復活運動を起こして自ら中華帝国皇帝・洪憲帝を号した。
 これにより国民から大きな反感を買って、反袁世凱の蜂起が相次いで起こり、翌年、帝号を取り消すとともに失脚。まもなく憤死した。 

 袁の出世街道をみると、権謀術数と賄賂のかぎりをつくしている。とくに西太后への贈り物攻勢はすさまじく、たとえば彼女の73歳の誕生日にはこんな具合いである。 
《……狐の毛皮で出来たガウン2着、宝石をちりばめた大きな沈香木、金銀線条細工に真珠をちりばめた鳳凰ひとつがい、人間の背丈ほどもあるサンゴを贈ったのであった。それより前、日露戦争の不安な時期には、袁は彼女(西太后)に自動車を1台贈り、また彼女をもてなすためインド人のサーカス団を宮廷につれてきたりした。》 (『袁世凱と近代中国』J・チェン著/守川正道訳/1980年・岩波書店刊) 

 袁は洪皇帝を名乗ると、今度は〔皇帝〕の自分への贈り物を自分で行った。 《1916年の初頭に、袁は郭宝昌という男を景徳鎮にさしつかわし、(自分の)宮廷のために4万個の陶磁器を140万元かけて作る監督官とした。他の出費に比べればこれは小さな金額でしかなかった。……》(同書)


 「青花児嬉図袁世凱磁器牌」が作られたのは、まさにこの時だった。景徳鎮(中国最大の製陶地)の官窯制度(陶器廠)はこれを最後に廃止され、中華人民共和国が誕生(1949年)して再興されるまで、陶工のほとんどは廃業して、一部が民窯として細々と生産を続けたにすぎなかった。
 袁世凱が最後に行った〔皇帝〕の自分への大贅沢な贈り物。その一つがこの麻雀牌だったのだ。 

 それらのことを含んで改めて見ると、この牌の凄さがいや増してくる。
 寸分も違わぬこの磁器の1牌1牌が、すべて手作りで焼かれたのだ。コンピュータによる均一大量生産品に慣らされた若い世代には想像もつきにくいだろうが、この精巧な技術と根気はもはや人間の業を超えている。

 権力というものは、時に人間の域を超えたとてつもないものをつくり出す。例えるにはあまりに大きすぎようが、万里の長城もそうであったように。   (文中敬称略/2005年7月の初出稿に加筆)

【青花児嬉図袁世凱磁器牌】――袁世凱が愛用した景徳鎮・磁器製の貴牌。牌背には子どもたちが無邪気に遊ぶ吉祥の水墨図(児嬉図)が焼き込まれている。索子牌は河南地方の馬吊(麻雀の前身の紙牌)に見られる鯉の絵柄で、袁世凱が河南の人であることと一致する。収納箱には山水画の磁器板があしらわれ、これに「袁世凱大総統珍玩」と「呉」の落款の焼き込みがある。1910年代製/35.0×25.0×15.0
   












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麻雀牌のものがたり⑤ 
インドシナ戦争を歴史証言
仏兵捕虜の手製アルミ牌

 
 ●激戦地ディエンビエンフー
 ベトナム北西部のディエンビエンフーは私の世代、とりわけ私にとって強い印象を残している地名である。
 私の青年期はまさにベトナム戦争の真っ只中にあった。連日テレビや新聞のニュースでその激戦のもようが報じられ、東西冷戦期にあって不安と緊張の日々が続いた。ディエンビエンフーはそのニュースの中で頻繁に報じられた地名なのだ。

   当時、国費留学していた沖縄・コザ市(現在の沖縄市)出身の女子大生の友達がいて、彼女の母親が米兵相手のバーを経営していた。彼女は休みで沖縄に帰るとその店を手伝っていたが、そこで知り合った同い年の米兵が嘉手納基地からベトナムの戦地へ飛び立ち、着いた2日後に前線で死んだ。

   それを泣きながら話す彼女をどう宥めたらいいか、私は困った。そしてその時背後のテレビで流れていたのが、ベトナム戦争のニュースだった。アナウンサーが地名の「ディエンビエンフー」をうまく言えず、二度もトチってしまった。今でいう、「噛む」というやつだ。そのことが悲しみと苛立ちをさらに増幅させることになって、彼女は号泣しながら叫んだ。
「ベトナム戦争は対岸の火事なのよ、日本人にとって!」

   アナウンサーのしくじりが彼女に日本人とベトナム戦争の距離感を痛感させることになり、それは同時にウチナンチュの彼女とヤマトンチュの私との間に隔たりを意識させることでもあった。
   私がベトナム戦争で強く思い出すのは、沖縄が日本に復帰する前のその日のことで、ディエンビエンフーはその記憶のついでに必ず出てくる地名なのである。

   今回紹介する麻雀牌は、それより10年以上前のディエンビエンフーに由来する。

   1954年3月13日から5月7日にかけて、ディエンビエンフーは第一次インドシナ戦争の最大の激戦地となった。この戦争はベトナムが領有国フランスからの独立を目指した戦争であり、フランス植民地軍のディエンビエンフー要塞をベトナム人民軍(ベトミン)が激しく攻め、両軍約1万人の戦死者を出す激闘の末、ベトナム人民軍の圧勝に終わった。

   その結果、フランスはベトナムから撤退することになり、ベトナムはフランスによる長い植民支配から脱却し、独立を果たすことになったのだ。アメリカとのベトナム戦争が始まる6年前のことだった。
   この麻雀牌はそのディエンビエンフーの激戦の後、その地で生まれた、いわばベトナム独立を象徴する歴史証言牌なのである。
【写真】ディエンビエンフー陥落。旧フランス軍司令部の屋根の上で旗を振るベトミンの兵士

 ●難攻不落の要塞だったが……
   見てのとおり、この牌は量産されたものでなく、手作りによってできている。これを作ったのは、ではベトナム人だったかというと、そうではない。フランス人によって作られた。

    激戦の末、フランス植民地軍2万人のうち1万人以上の兵士が捕虜となり、ディエンビエンフー近くの収容所に入れられた。その捕虜の一人が麻雀愛好者で、廃材のアルミ板とラワン材を張り合わせ、記憶を頼りにこれを作り上げたのだ。

   その兵士の名前は、残念ながら分からない。ただ、フランス南西部のトゥールーズという街の出身で、植民地軍の工兵伍長だったということだけが分かっている。

    彼をかりにアンリと呼ぶことにしよう.
    この戦争は1946年に始まったが、フランス軍は徐々に劣勢に立たされ、戦況の打開とラオス防衛のため、ベトナムとラオスを結ぶ交通の要衝・ディエンビエンフーに1953年11月から大要塞を構築した。アンリ伍長はきっとこの要塞の建設に深くかかわった一人であったろう。

    ディエンビエンフーは険しい山々に囲まれた盆地である。そこに彼らは滑走路を造り、難攻不落の要塞を築いて、精鋭外人部隊を含む歩兵17個大隊、砲兵3個大隊、あわせて2万人の兵力をつぎ込んだ。

    フランス軍はここを反撃の拠点にするはずだったのだが、しかしいざ戦闘が始まってみると、独立を目指すベトミン軍10万人の戦力と士気のほうがはるかに勝り、フランス軍はなすすべもなく敗れた。
 アンリは工兵であるから激戦の最前線にはいず、戦死を免れて捕虜となった。

    投降した日が5月初旬。当初は自分たちが1年前に築いた要塞の中に閉じ込められていたが、やがてやはり自分たちの手でバラックの収容所が建てられ、そこに移った。その収容所建設にも工兵のアンリの腕はきっと役立ったであろう。

    ベトナムでは5月から11月まで雨季で、雨の日がつづく。鬱陶しさと敗残の惨めさのなかで、アンリは故郷のトゥールーズを思い、家族を思い、その家族たちと楽しんだ麻雀のことを思い出した。
    同年兵に訊くと、麻雀を知っている者が何人かいる。同胞たちの沈んだ表情を見ながら、彼は思ったのだ。そうだ、麻雀がある!

 ●記憶を頼りに牌を作る
    麻雀をやるには牌が要るが、もちろん囚われの身でそんなものは手に入らない。
    ならば自分で作るしかなく、彼は収容所建設で残ったラワンの廃材で作ることを思い立った。で、手ごろな大きさの直方体の木片を作り、さて、と思った。これだけでも牌はできるが、それでは彼の工兵魂が満足しない。自分がフランスの故郷で使っていた牌は牛骨と竹を張り合わせたもので、骨部分は薄かった。その骨材の代わりになるものはないか。
    廃材置き場所に向かう途中でアンリは気づいた。あれだ!
    ベトナムは銅やマンガン、亜鉛などの鉱物資源に恵まれており、アルミの生産量が多い。収容所の屋根を葺いたのもアルミ板で、その残りが廃材置き場のあちこちに転がっていた。

   これを切って木片に目釘で張り合わせてみると、うむ、なかなかいい。大きさも重みも体裁も、記憶にある麻雀牌とそんなに違わないように思われた。
    ところが、いよいよ仕上げの牌面の彫刻の段階にさしかかって、そこでアンリははたと困った。
    風子牌の東・南・西・北はイニシアルを彫り込めばいいから、これは問題ない。三元牌の白も、もちろんいい。中もなんとか形を思い出した。だが、緑發の發の字がどうしても浮かばない。
    漢字になじみのないアンリにとって、その字は画数が多すぎるし、形もあまりに複雑すぎるのだ。

   麻雀をわりとよく知っているように感じた仲間に訊くと、
  「こんな形じゃなかったか……」
   彼は紙にその字をスケッチした。ちょっと違うようだが、似ているようでもある。アンリはその文様をそのままアルミ板に彫りこんだ。

    筒子(ピンズ)牌は中小のドリルの先端部分を抜き取った円形の受け口を打ち付けて作り、索子(ソウズ)牌は線引きの鑿でなんとか仕上げた。残るは万子(ワンズ)牌である。
    万の字は形が簡単なようで、アンリにはもう一つはっきり浮かばない。
 
 「&のような字じゃなかったか」
   と仲間の一人が口にしたが、たしかにそんな形だったような記憶もあるものの、やっぱりはっきりとは浮かんでこないのだ。それ以上はどうしても発展せず、アンリは結局、ローマ数字と&マークを組み合わせることにした。

   そうして赤と緑のペンキで彩色して136枚すべてが出来上がると、麻雀を知る仲間からも、知らない連中からも、期せずして拍手が沸き起こった。
    外はまだ雨がアルミの屋根を叩いている。仲間たちは顔を見まわし、何人かがほとんど同時に声を上げた。
 「やろうよ……さっそく!」
 「やろう!」「やろう!」

  ディエンビエンフーの収容所の中で、こうして麻雀が始まった。
  カチャカチャと牌をかき混ぜる。その音は本物の麻雀牌の立てる音とほとんど変わらず聞こえ、それに引き寄せられるように、テーブルを囲んでたちまち人だかりができた。 
 どの顔も興味と物珍しさで輝き、捕虜収容所生活始まって以来の興奮に満ちたのである。

   ●人道的かつ丁重な捕虜の扱い
    ……見てきたようなことをつらつら書いたが、まあそのようなことではなかったろうか。

   私は今から40年前(昭和52年=1977年)、太平洋戦争直後の巣鴨プリズン(極東国際軍事裁判における戦犯収容所)で行われていた麻雀のことを、40枚のノンフィクションにまとめて雑誌で発表した。

   そこでもやはりA・B級の戦犯が木製の牌を作って麻雀をやっていたのだが、それとまったく同じことをほとんど同時期に、フランス兵捕虜もベトナムで行っていたということに、言いようのない感銘を覚えた。

    麻雀博物館にはこれらのほかに、シベリア抑留者の白樺手製牌やインパール作戦の戦傷兵によるチーク材手製牌、南洋無人島の守備隊兵士が作ったラワン材の手製牌など、戦時・戦場で作られ使用された麻雀牌が十数組収蔵されている。それらの牌は無言ながら、圧倒的な強い意志で我々に多くのことを語りかけているように思われ、私はそのコーナーに立つといつもしばらくそこに足を止めざるを得ないのだ。

     さて、この話の主人公である仮称アンリは、12年間ディエンビエンフーで収容所生活を送り、1966年に解放されて帰国した。そのとき彼はこの牌をどうしても現地に置き去ることができず、頭陀袋の中に忍ばせて持ち帰ったという。
    アンリはその後トゥールーズで平和な日々を過ごし、麻雀博物館ができる前年の1998年に他界した。

   この牌は彼の死後、遺族からトゥルーズの骨董商に預けられ、ロンドンのオークションを経て収蔵されたので、アンリへの取材もかなわず詳細は分からない。しかし彼がこう言い遺したことだけは伝えられたのだ。
 「麻雀を知らなかった人にも教えたので、この牌ではずい分多くの戦友たちが麻雀を楽しんだ。故郷から遠く離れた東南アジアでの惨めな日々に、この牌による麻雀がどんなに私たちの心を癒してくれたことか。これは私の人生の宝物なんだ」

   それにしても、と私は思う。ベトミンは独立への苦しい戦争の極限にあって、1万人以上ものフランス人捕虜を決して虐待することなく、よく平穏裡に収容しつづけたものである。

    指導者ホー・チ・ミンの厳命があったといわれるが、ディエンビエンフー収容所の捕虜の扱いは極めて人道的かつ丁重であったという。だからこそ、アンリたちフランス人虜囚たちはキャンプの中で麻雀を楽しむ自由を得られ、長年月を生き長らえることができたのだ。

    この牌は、フランス人元兵士が手製で作ったものながら、かつての敵を憎まず尊重したベトナム人民のあたたかい心が生み出したものともまた言えるのではないか。   

                 文/名木宏之(初出=2007年7月)

*ディエンビエンフーの仏軍敗北を受けて、関係国の間で和平協定が結ばれ、ベトナム民主共和国の独立が承認された。しかしフランスを支援したアメリカは傀儡政権によるベトナム国(のちベトナム共和国=南ベトナム)を誕生させ、この分断国家状態が泥沼のベトナム戦争(1960-1975)の引き金となった。

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 麻雀牌のものがたり⑦
 精巧美麗な驚異の浮彫り
 「松樹下修身図 犀角牌」

   ●犀の角に特別な関心
   中国の社会学者の一行を麻雀博物館に案内した時のことだ。
 ずい分熱心に見学する人たちで、突っ込んだ質問も多く、随行して説明役に回った私もいつも以上に力が入った。
   中国コーナーの麻雀黎明期の牌「昇官牌」に感嘆し、ラストエンペラーの「皇帝御牌」に唸り、清朝の「純銀牌」にため息をついて、「松樹下修身図犀角牌」の展示ケースに進む。その牌が「犀の角で出来ている」ことを説明すると、一行の一人がうーむと唸ったきり、絶句した。そしてしばらく牌を食い入るように見つめて、ぽつりと言った。
 「大変な牌です、これは」

    もちろん通訳を通しての言葉だが、そうでしょう、と私は自分のことを褒められたようにうれしくなった。背面・側面の精巧美麗な浮彫りを見れば、この人ならずともその凄さが分かろうというもの。麻雀博物館には中国の職人の高い技術を示す精巧な細工の牌が多数あるが、この「松樹下修身図犀角牌」の浮彫りの素晴らしさは三本の指に入る。

   だが、この人の驚きはそのことだけではなかったことが、のちの会食時の雑談で分かった。
 「私は漢方(薬)について、いささか知識がありますが……」
    彼は前置きして言った。「あの犀の角でできた牌はほんとうに大変な物です」
    その言葉はすでに聞いているし、彼がその牌に別状の興味を持ったことも私は知っている。ところが彼が通訳を通して言う「大変な物」という言葉のニュアンスは、私が感じているのとはちょっと違っているような気もした。

    彼はすると、次にこう訊いてきたのだ。
 「あれは、いくらで買いましたか?」
 「はあっ、値段ですか!?」
   あまりに直截的な問い掛けに、私は面食らった。「買い値のほうは……具体的な数字は勘弁していただきたいのですが、ま、あれほどのものですからね……」
 「そうでしょう。……50万元……くらいはしたでしょうな」

    8年前の当時のレートで700万円以上ということだが、私は肯定も否定もしないでおいた。この牌は中国(遼寧省)から入ってきたものだし、具体的な数字を示すのはためらわれる。それに、どこの博物館でも収蔵物の値段を表に出すようなことはまずしないものだ。収蔵物にはそれぞれ金銭的な値打ちとは別の価値がある。
   
   彼は私のあいまいな返答に満足はしていなかったが、私の表情から自分なりの納得を引き出したものらしい。
 「犀の角は、今は中国でも手に入りません。そのため、犀の角でつくられた印鑑を削って(漢方薬として)呑んでいる人もあるくらいです」

   ●乱獲のため絶滅危惧種に
   私は犀という動物が好きである。動物園でも、ライオンやトラ、チーターなどのネコ科の動物を見ると、まっすぐその足でアジア園のインド犀を見に行く。


 固い鎧をまとい、巨体を重戦車のように揺すって歩く。世の中に何も怖いものなんかなさそうな、その姿を見るだけで満足なのだが、あるときインド犀が小走りに駆けているのを一度だけ見たことがあって、好感度がいっぺんに跳ね上がった。
 あの重たそうな体(2~3㌧)で、意外に軽快なのだ。ドタッドタッというのじゃなくて、スタスタという感じで軽やかに走る。その走法がまたなんとも愛らしく、巨体の割に短かめの脚をちょこちょこと運んで、あはっ、思わず笑ってしまった。

 その愛すべき犀は、しかし今、悲しく過酷な運命にある。
 犀はインド犀、ジャワ犀、スマトラ犀、黒犀、白犀の5種がアジア・アフリカに生息しているが、そのすべてがレッド・データブック(IUCN=国際自然保護連合)の絶滅危惧種に指定されている。地球上で合わせても2万頭しか残っていないという非常に危険な状態にあり、ワシントン条約(CITES=絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)でも取引が禁止されている。なぜそこまで個体数が激減してしまったのか。それは、中国の漢方通先生の言葉どおり、その角に漢方薬として特別な価値があり、乱獲されたためなのだ。

 私は漢方に詳しくないのでそのありがたみは分からないが、解熱剤・強壮剤として犀の角は相当な効き目があるらしい。乱獲を許していた時代でさえ犀角は大変な高値であったというし、密漁以外で市場に出なくなった今、漢方通先生が犀角牌の値を気にしてしまったのもむべなるかなだろう。
     2、3年前イギリスで、儲けになるからと博物館に展示してある犀の頭部剥製を盗みに入った不届き者がいた。かなり古い剥製だったのだが、値段にするとなんと6000万円にもなったというのだから、びっくりである。

 漢方通先生は犀角の印鑑を削って服用する話につづけて、こう言ったものだ。
「漢方薬として最高級品とされているのは、あの牌の犀の角なんです」

 ●宮中お抱えの匠の究極の技
 さすがに気になって調べてみると、確かにインド犀からとれる黒色の烏犀角は相当高価なものらしい。ついこの間(2013年2月)もテレビ『なんでも鑑定団』で、なんでもないそのままの烏犀角に500万円の値がついていた。この牌は角1本や2本ではとてもつくれない代物だから、漢方通氏の値踏みではまだまだ低すぎるというべきだろう。

 ……値段の話に引きずられてなかなか麻雀牌そのものの本題に進めないが、もう一つ寄り道を許していただこう。
 この犀の角について私はずっと骨の一種だとばかり思っていたけれども、それが間違いだということを最近になって知った。
 毛が固まってできたもので、岩などにぶつかって折れてしまっても1、2年で元のように生えてくるらしい。骨ではなく、毛の角質化したものなのだ。
 だから硬さも見た目よりは軟らかく、専門家によると、翡翠などの石や象牙に比べると細工はしやすいという。といってもそれは高い技術をもった匠ならではの話で、私などが彫刻刀を扱うのとはわけが違う。ご覧あれ。この「松樹下修身図犀角牌」の背面・側面の浮彫りのなんと素晴らしいことか。

 台北の故宮博物館で精巧な翡翠や象牙の細工を見た人ならお分かりだろう。かつての中国の、それも宮中お抱えの職人の技術は信じがたいほど高度であった。象牙細工の空洞の中に象牙細工が施され、またその中に細かい象牙の細工が施されている。40年近く前初めてそこを訪れたとき、これが一つの翡翠原石をくりぬいて作ったものだという説明を受けて、私は驚愕した。
 細い小刀がやっと入るくらいの狭い隙間を通して、どうやって中の細工をしたのか。そのまた中の細工は……と考えると、これはとても人間業とは思えない。

 この犀角牌を見たときとっさに浮かんだのは、その台北故宮博物館の翡翠細工のことだった。この浮彫りの仕事はそんじょそこらの職人にできることではない。宮中お抱えクラスの匠が精魂込めてやった仕事だと、私は確信に近い思いでこれを見た。

 それにしてもこの牌の精巧さはどうだ。一つ一つの牌の浮彫りに寸分の違いも見いだせない。いったい他の遊戯で、これほどの遊具をつくり出した遊戯が麻雀以外にあっただろうか。
 囲碁の棋戦を担当している大手新聞社のベテラン記者が、この牌を見ながら言ったことがある。
 「囲碁も長い歴史があるんだから博物館ぐらいできてもいいのに、これほどのものはありませんからね。なかなか(囲碁博物館開設が)実現できないんです」

 
 自分が麻雀文化に興味を持続させてきたのはそんなところにあったのではないかと、私は彼の言葉を聞きながら思った。
 囲碁・将棋が理詰めの最善手を求めるゲームであるのに比して、麻雀は局面での選択の遊びを許す。
 これは商売や仕事の選び方にも似るが、囲碁・将棋がどの商売をやるかと決めるとどんどんその道一本に絞り込んでいくのに対して、麻雀は魚屋にするか八百屋にするかサラリーマンになるか社長を目指すか、その時々で選びなおせるようなところがある。場合によっては途中でやめてしまう(降りる)こともある。

 それが文化のゆとりと多様性につながり、豊かなゲーム性と遊具を生み出すことになった。
 麻雀には文学も数学も経済学も社会学も、アナログ(文字牌)もデジタル(数牌)も、何もかもが含まれていながら、それでいて性悪な一面も大いにある。その仁(にん)の境地によっては、輸贏 (しゅえい=勝負) を超えて夢幻に遊ぶこともできる。そこがよかったのだ、私には。

 さて、この牌の浮彫りである。
 その文様は上側面が雲と蝙蝠(こうもり) 、側面は瓢箪(ひょうたん)で、ともに運気を象徴する図柄が1牌の小異も許さずに彫り込まれている。
 背面は松の木の下に老師と小人の図。これは他の古牌の収納箱にもいくつか描かれているが、孔子が教え子に諭す〔修身〕の図であろう。全体には宗教的な荘重を感じさせる風景が現出されている。

 ●犀の角の如く独り歩め
 宗教的、と書いたついでに、犀の角で思い出す一冊の文庫本がある。
 高校時代に読んだ、『スッタニパータ』(1959年、岩波書店)。現存する最古の仏典の邦訳(中村元・訳)で、釈迦=ゴータマ・ブッダが修行で行く先々で弟子たちに語った言葉がまとめられたものだ。

 仏教がまだ中国に伝わっていない頃の原初的な仏典(原典はバーリ語)だから、漢字で書かれた小難しさはなく、誰でもわかる道徳・倫理が詩文で書かれている。

 その短い詩文の一節一節の終わりに必ずつけられているのが、〈犀の角の如く独り歩め〉という結句だ。暴力をふるうな、怒るな、人の悪口を言うな、親孝行しろ……といったシンプルな教えが連綿と続き、必ず〈犀の角の如く――〉で結ばれる。犀にはイノシシのように直進するイメージがあって、修行にはわき目も振らず励まなければならないという比喩がこれに込められているのであろう。

 その『スッタニパータ』六八段に曰く。
《最高の目的を達成するために、努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力を具え、犀の角の如く独り歩め――》

 こういう勉励は私にこそそぐわないかもしれないが、麻雀必勝の心得にも相通じるものがあろう。
                      文/名木宏之(初出=2006年10月)

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麻雀牌のものがたり⑧  
 ジャポニスムの傑作 
ウイーン「浮世絵牌」


ゴッホも日本の浮世絵を手本にした 
   2005年の第1回オープン・ヨーロッパ麻雀選手権(写真)に、私は日本チームの監督として参加した。

    この大会*はオランダのドイツ国境に近いナイメーヘンという古都で開かれ、わが「名木ジャパン」(と選手たちは言った)は団体戦優勝、個人戦も1位から4位までを独占するという快挙をやってのけて、私は大いに面目をほどこした。強い中国や台湾のチームをはじめ世界10カ国・27チームが参加してのこの好成績は自慢できる。
麻雀の世界選手権大会やヨーロッパ選手権は日本のリーチ麻雀でなく、偶然性・射幸性を減じた「国際公式ルール」で行われる。

    その帰り、途中でキンデルダイクの風車群を見たりして、アムステルダム23の観光をすることになったが、旅行社はそこでうれしいプランを立ててくれていた。レンブラントが『夜警』を描いた部屋のある古ホテルを取ってくれていたうえに、前から行きたかったゴッホ美術館を訪ねることができたのだ。
    フィンセント・ファン・ゴッホの絵は日本でも過去何回か展覧会をやっているが、ここでしかなかなか観られない作品があって、私の目当てはそれを観ることだった。 
 
   玄関を入ってぐるり見渡す。あちらもこちらも全部ゴッホの熱い作品ばかりで眩暈を感じるも、せっかくだから順路に沿って11をじっくり観て回った。
 
    目指す絵は館の中ほどにあった。歌川(安藤)広重の浮世絵をそっくり模写した「大はしあたけの夕立」(写真下がゴッホ)や「亀戸梅屋敷」などの、いわゆるゴッホ・ジャポニスムの数点の絵だ。それらを目にしたとき、私は図らずも落胆と喜悦の両方を同時に味わった。
     あらあらゴッホさん、と言いたいくらいに〔そっくり模写〕というにはほど遠い描写で、いくら駆け出しの頃に描いた習作にしてもちょっと拙い*(彼の絵は亡くなるまでずっと売れなかったけれども)。
    それに比べて手本にした広重『名所江戸百景』の完成度の高さはどうだ。ヨーロッパ人鑑賞者の中に立って私は一人胸を張りたい気がしたものだった。

 *私は隠れた絵画コレクターでにゴッホの肉筆油彩画も3点ほど所有しているけども、彼の作品にはうまい下手を超越した魅力があり、訴えかけてくる圧力はとにかく凄くて驚かされる。


 ●風子牌・花牌に謎の人物画

   またしても前置きが長くなったが、ここで紹介する牌は、そのヨーロッパのジャポニスム文化が生み出した牌なのである。
   この牌を最初に見たとき、世の中広いと私は思った。麻雀の歴史の深さと広さも同時に思った。
    この牌はその意匠の特異さの点で他に類を見ない。傑作中の傑作牌である。

    どう傑作なのか。まず、右写真左のE・S・W・Nのイニシアルが入った牌。このイニシアルは東・南・西・北のことで、すなわち風子牌である。それぞれの人物が口から強く息を吹きかけていることから風神を意味しており、力士をモチーフに聞きかじりで描いたものに違いない。
 その右隣は三元牌。これは竜の絵柄だから問題なかろう。

 右端の花牌には、浮世絵の美人画や役者絵から写し取ったと思われる着物姿の男女の絵が美しく描かれている。が、これがよく見るとおかしい。1の女性が右手に持っているのは軍配じゃないか。はたまた羽子板か。
    3の女性はなぜ土瓶を持っている? 4の女性は杖をついているから老女なのだろうが、右下隅にあるカナとも漢字ともつかぬ文字はなんだ?
 「メ」に「女」に、あとは「ナ」だろうか……それに何の意味があるというのだ。
 その横の花の絵柄の花牌2と3にも文字が入っており、2は「互」「入」「手」のように読める。「八つ手」かなとも思えるが、絵柄からいってそれはなさそう。3の文字となると、もはやお手上げだ。どうにも判じられぬ。

 売れっ子絵師の名前がずらり
    極め付きは、下写真の万子(ワンズ)牌の文字である。
    ああ、なんということ! たしかに数牌のうち漢字が入っているのは万子牌だけだとはいえ、ここまでやってくれるか! ずらり浮世絵に関係する文字のオンパレードだ。
                                     
 ぱっと見てかるのは5万の「豊國」と7万の「北齋」で、言わずと知れた歌川豊国と葛飾北斎の落款。「國」と「齋」の字に若干の疎漏はあるものの、まあ立派に書かれている。

 北斎の落款はこれよりもっと字体を崩した草書体に近いものが多く、この牌面の字とよく似た落款が残っているのは、寛政9(1797)年に北斎を名乗り始めた時に描かれた『江島春望』という作品だけ。この牌の製作者はその作品が収められた豪華狂歌本の『柳の糸』を参考にしたと思われる。  

 6万の「豊章」は、喜多川歌麿の初期雅号である北川豊章のことであろう。

 3万の下部の井桁に「長」の字が入った家標は、江戸・嘉永年間(1848-58)に芝明神前に店を構えた地本錦絵問屋・有永堂(歌川広重の初期の版元)の有田屋清右衛門の版元印。2万、4万、8万の字は、絵師の落款に添えられた「筆」の字である。
 
    さらに9万の下にある富士に蔦の葉を配した印章は、天明後期から寛政中期(1700年代終わり)にかけて隆盛を極めた版元・蔦屋重三郎の版元印で、その中段には江戸町奉行の検閲を受けた改印の「極」まである。
 
    奇妙なのは1の「李光明」の名前。中国人か韓国人の名前だろうが、たしか昔の中国の文人にそんな名の人がいたような。浅学の私はそれ以上を知らぬ。
    筒子(ピンズ/冒頭写真左下)牌のドーナツ型の文様も気になる。ここまで日本文化をなぞってきて、まさかドーナツでもあるまいから、やはり日本の何かをヒントにしているのだろう。雷鼓(雷神の太鼓)の模様あたりからきているのかもしれない。
 
 索子(ソウズ/右写真)牌のしだれ柳のように描かれているのは、もちろん竹である。葉っぱはともかく、幹にちゃんと節が描いてある。この索子にも全牌に文字らしきものがあるが、これらの〈文字〉を一つ一つ解読しようという気力はもはや私にはない。

 こうまで日本文化を模倣しているということは、つまり尊重していることで、多少ピント外れのところはあっても、これはうれしいことである。
 
 あちらはふざけ半分にやっているのではなく、本気でこれを作っている。本物より少しばかりずれているのはゴッホの広重模写と同じで、まあ許される範囲の齟齬と言ってよいだろう。
 いったいに19世紀終わりから20世紀はじめにかけてヨーロッパで流行したジャポニスムという文化そのものが、概念ばかりに終わってしまった感があり、キッチュを以てこれを責めるのは方向違いというものだ。

 麻雀は中国で生まれたものなのに、日本ブームにあやかって全編ニッポンに置き換え、知っている日本のすべてを注入してやっとこれが作られた。その意欲のほうを褒めるべきではあるまいか。日本人としてはくすぐったいような気もするが、悪い気はしない。

 ●ウイーンのジャポニスムの特異性
 先に述べたように、この牌はウイーンで発見された。だから即ウイーンで作られ使用されたと断じるのは短絡の誹りを免れないないにしても、私はそう考えて間違いないと思っている。

    なぜそうかというと、ウイーンはパリとともにジャポニスム文化の最も流行した所であり、パリとは違った形で日本文化が捉えられた。パリでは主に美術を中心にしていたが、ウイーンでは広範囲に日本文化がなぞられ、美術は無論のこと、日本庭園風の造園がさかんに行われたり、家具調度から花瓶、布地……と、小物に至るまで多岐にわたってニッポンが真似られた。
   その多様性において、ウイーンのジャポニスムはヨーロッパの他地域とは際立って特異であり、麻雀牌を浮世絵の意匠で作ってしまうのはウイーンにほかにあり得ないと思われるからである。
 
    そもそもジャポニスムという文化のブームがヨーロッパで起こったのは、1867年のパリ万国博覧会からだった。日本はまだ幕末で、徳川幕府のほかに薩摩藩、佐賀藩が独自に参加したものの、物産展程度の出展でしかなかった。しかし、ちょんまげ・帯刀の日本人の珍奇さはヨーロッパ人の度肝を抜くには十分で、たちまち日本ブームが沸き起こったのだ。
 
    まっ先に影響を受けたのは浮世絵に刺激された画家たちで、先のゴッホやゴーギャンら後期印象派はもちろん、その前のマネやモネをはじめとする印象派、ボナールやヴィヤールらナビ派、さらにはエミール・ガレらアール・ヌーヴォーの作家たちにも大きな衝撃と影響を与えた。
 
    日本が本格的に出展するようになったのは、明治新政府となった後に開かれた1873のウイーン万博からである。
    新政府はこの出展に力を入れ、ブースに日本庭園(写真は国会図書館蔵)をつくって錦鯉を放ち、名古屋城の金のしゃちほこや鎌倉の大仏の張りぼてまで持ち込んだりして、西欧人の目を引くことに努めた。
 
    出展も浮世絵や陶磁器、七宝、金銀細工などの美術工芸品から織物、和紙など多岐にわたり、焼き物や扇子、団扇などが飛ぶように売れたという。

    ウイーンのジャポニスムの波はパリより後に生じたが、その波の幅がパリよりずっと広かったのはその故であり、この牌がウイーンのジャポニスムの産物だと私が考える理由もそこにある。
 
    これの牌ケースには「KASPI」の文字がある。カスピ社という玩具会社が製造販売したということであり、KURT BRIEGERというドイツ人名らしき文字も小さく印刷してあるが、さてどうだろう。オーストリア西部はドイツに色濃く影響を受けた地域であり、ザルツブルグ周辺にこの会社があったことも考えられる。
    今のところ私の網に入っている情報は「1930年のカスピの麻雀牌がオークションに出された」という古い記事のみ。その社がどこにあったのか、まだ特定できないでいる。   
文/名木宏之(初出=2007年1月)
 
   【ウイーン浮世絵牌】――製造年代不詳。木製紙貼り。40.5×25.5×7.5㍉

  麻雀牌のものがたり⑫  
 梅蘭芳愛用の「遊龍戯鳳牌」は 
 なぜ日本にあったか 

 ●梅蘭芳の奇特な人柄
 近代京劇の名優・梅蘭芳(メイランファン)が愛用していたとされる「遊龍戯鳳牌」(上写真/複写)

 私がこの麻雀牌の存在を知ったのは40年前の昭和52(1977)年のことだった。中国ではなく、ずっと永く日本にあるという。
   私はそのころ月刊誌『近代麻雀』(現在は漫画雑誌であるが、創刊当初は活字雑誌だった)で麻雀に関するノンフィクション読物を連載執筆中で、「巣鴨プリズン牌」や日本最初の麻雀クラブ「南山荘」、日本麻雀のドラの発明者、麻雀牌手彫り職人第一号の松本幸弥さんのことなど歴史的なことを調べて、1回1テーマで400字40枚ていどにまとめて書いていた。

   その第5作目『南山平山三郎伝』の掲載誌が発売されてまもなくだったと思う。麻雀通で知られる古老から手紙をいただき、梅蘭芳の愛用牌が日本にあり上海公司という会社の経営者が所有していることを教えてもらったのだ。

   すぐに上海公司の社長・斎藤茂勇さんに連絡すると、確かに彼が持っていて、家宝にしているという。上海公司とは1920年代の終わりから麻雀用具の輸入販売を始め、まもなく国内での製造販売に切り替えたいわば麻雀用具の老舗で、本社は東京にあった。
   これこそ麻雀ノンフィクション・シリーズで書くべきことではないか。私の心は躍った。梅蘭芳という人物に子供のころから特別の思いを抱いていたことも重なった。

   私は前に触れたけれども広島市中心部の古い家に生まれ、原爆で一族が壊滅的な被害を受けながら、母と兄と私は郡部に疎開していて生き残ったという家史をもつ。
   小学三年生のとき疎開地の近隣の小学校の演劇大会で私が最高賞のようなものをもらった後で、親戚の者がこんなふうに言ったのを覚えている。
 「中国の偉い俳優さんが広島に寄付してくれたのよ。日本は戦争で中国に酷いことをしたのに……」
   その「偉い俳優さん」が京劇大役者の梅蘭芳で、寄付がどんなものであったかということをかなり後になって私は知った。

   梅蘭芳は大正8(1919)年、大正13(1924)年、昭和31(1956)年と三度来日しているが、三度目のとき、東京歌舞伎座を皮切りに一か月余り、日本全国を巡回公演した。当時の周恩来首相の強い勧めで梅蘭芳はこの中国京劇団の団長を務めたという。
   その巡回旅行で福岡公演から関西への帰路、公演のない広島駅のホームで列車に乗った彼を被爆市民が大歓迎したのに心を打たれ、滞在予定を延長してまで東京での慈善公演を行なって、売り上げを広島・長崎の被爆地への救援寄付に充てた。

  その前の1924年の第二次公演は前年に起きた関東大震災への慈善公演であったし、その公演期間中に彼が急性腸炎を発して一命を取り留めた際には、日本人医師は蘭芳の奇特な行いに感得して治療費を受け取らなかったという。医師が治療費の代わりに欲しがったのが蘭芳がシャツにつけていた七宝のカフスボタンで、それを貰って大喜びしたという逸話も残っている。
   戦時中に彼が抗日の闘士だったということも併せて、叔母はヒューマンな蘭芳の話に感動し、子供の私にぜひ言って聞かせたかったのだろう。

   上海公司の斎藤茂勇さんは「梅蘭芳の牌を戦後まもなく譲ってもらった」ことを電話で話し、私は後日ゆっくり取材の時間をいただくことをお願いして電話を切った。その耳に強く残ったのが、話の途中で彼が口にした「誰に頼まれてもこの牌は譲りませんよ」という笑い声の混じった強い口調の言葉だった。

   斎藤さんへの取材はしかし、実現しなかったのである。
 ノンフィクション・シリーズの次回テーマは「文壇麻雀賭博事件」*注1と決まっていて、締め切りが迫り資料集めも取材も終わっていたのに、編集部から突然そのテーマでの執筆・掲載を断ってきた。麻雀の健全性を前面に出したいときにこのテーマは合わないと言いだしたのだ。
   そういうことがあって私の意欲も削がれ、シリーズそのものも尻切れトンボに終わって、編集部からもっと娯楽性の強い読み物の執筆を頼まれて書きつづけることになった。
【注1】文壇麻雀賭博事件――昭和8(1933)年、厳しさを増した言論弾圧(文芸統制)の煽りで、麻雀賭博を常習したとして菊池寛、久米正雄、広津和郎、里見弴、宇野千代らが逮捕された事件。

 ●麻雀文化の豊かさを伝える名牌
 梅蘭芳の牌が私の前に現実となって現われたのは、それから30年近く経ってからだった。
 『近代麻雀』を発行する竹書房の会長・野口恭一郎さんから電話がかかり、会いたいと言う。会って聞いてみると、麻雀博物館を創設したいとのことで、「あなたは麻雀の歴史・文化に明るいのでぜひ手伝ってもらいたい」ということだった。

 野口さんは蒐集したコレクションの一部を見せてくれたが、それらを見て私の心は決まった。ラストエンペラーの宮中にあった牌、私が昔書いた巣鴨プリズンの牌、菊池寛の愛用牌、美しい花辺牌……すばらしい蒐集品に混じってひときわ品のいい牌がある
「これは?」
「梅蘭芳……京劇の……その人が昔持っていた牌です」
「それじゃ、上海公司から入ってきたのですか?」

「ああ、あそこにあったのを知っていたんですね。上海公司はだいぶ前に廃業しましたが、社長の斎藤茂勇さんが亡くなりましてね。おうちの方から連絡をいただいて牌製造道具一式と一緒に譲ってもらいました」
 そう聞いて、それが件の梅蘭芳の愛用牌であることを私は即座に確信した。
 この圧倒的な存在感はどうだ。日本麻雀の先達である斎藤茂勇さんが家宝として愛蔵しつづけて50年(現70年)、その前に日本に入ってからなら70年(現90年)……ずっしりと麻雀文化の豊かさを伝えてきた、まさにその牌だった。

「この牌のことで何か聞きましたか?」
「ご本人が亡くなったからね。家の人はあまり知っていらっしゃらないようだった」
「私は30年前に茂勇さんからこの牌を譲ってもらった人の名前を聞いたんですが、元の持ち主は作家の榛原(はいばら)茂樹だったと言っていらっしゃったように記憶しています」
「その人の名前は私も聞いたことがあります」

 じつはその時までに私はこの牌のことで少しずつの情報を古雑誌や古書からつかんでいて、上海公司が所有していた梅蘭芳の牌は作家の榛原茂樹が梅蘭芳本人からもらったものであり、それが(誰かを経て)斎藤氏に譲渡された*注2ということをほぼ確信していたのだ。

 私が野口さんの申し出を受けようと思ったのはこの牌を見たからだといっていい。麻雀の歴史ドキュメンタリーが未消化に終わっていたこともあって、麻雀博物館の開設を手伝うことは当然の成り行きだった。
【注2】この原稿執筆にあたって再確認するために斎藤茂勇さんのご遺族に連絡したが、事情を知っておられた長男の方も亡くなっていて、榛原茂樹とこの牌についてのそれ以上に詳しい経緯は聞けなかった。それを記述した文献も手元にないので、見つかった時点で掲示する。麻雀ドキュメンタリー執筆のために私が集めた資料・文献は別のライター・評論家に一部を譲り渡した以外はほとんど逸失してしまっている。

 麻雀博物館創設にあたって、私はほとんどすべての収蔵物について分析・解析し、解説を加えた。このとき『麻雀博物館大図録』というB5判168ページの全4色本も合わせ執筆し編集したが、それにはこの梅蘭芳牌を「梅蘭芳特注の『遊龍戯鳳牌』」と見出しを打ってこう解説した。
《京劇の人気演目「遊龍戯鳳」を擬して、時の名女形・梅蘭芳が特別に作らせ使用したオーダー牌。民国初期(1920年代)製。上海公司社長の故・斎藤茂勇氏が戦後まもなく手に入れ、愛蔵していたものである。全体的にしっかりとした彫りで、麻雀が文化として定着した確かさがこの牌を通して感じられる。万子牌は「万」字でなく官吏等級の「品」で、索子は節目のはっきりした竹文様、1索は鳥籠から飛び立つ鳥の勇んだ様が彫り込まれ、1筒の文字は製作者の名前である。花牌の文字はさすがに役者の牌らしく、「名伶表演」は名役者の演技を意味し、「古今趣史」は明の博物史書の書名「古今逸史」の逸を趣に変えて洒落ている。付け加えるなら、花牌に多い「梅蘭竹菊」の文言は四君子(高潔を示す四つの植物)から採っているが、梅蘭芳の名声にあやかったものだとする説もある。
 京劇「遊龍戯鳳」は別題「梅龍鎮」ともいい、原典は「綴白裘」の「戯鳳」の節。明朝の正徳帝(位1505-21)は微行を好み、政治向きのことは宦官に任せて顧みない。ある時軍人の恰好をして梅龍鎮に行き、李龍哥の家に泊まることになったが、李の妹・鳳姐がたいへんな美人で、帝はすっかり虜になってしまう。鳳姐は邪険な態度をとったりするのだが、怒った顔がまたいいというのでとうとう連れて帰って妃にする――といった物語である。(以下略)》 (上写真は貴妃を演じる梅蘭芳)

 
 これに牌ケースや梅蘭芳の舞台写真などの解説をつける。だが、不勉強な私には大変な作業で、発表してすぐに「いけないのじゃないか」という箇所に気がついた。梅蘭芳が特注して作らせた牌としたけれども、違っていたのじゃないのか、彼が誰かから贈呈されたのではないかと思ったのだ。花牌の「名伶表演」の文言。名優の梅蘭芳が自ら「名伶(名優のこと)」などと彫らせるものだろうか。

 中国人の性向をよく知るという人に訊くと、「自分のことはしっかり自分から言うのが中国人です」と、当然だというように答えた。それなら問題ないかとも思うが、本人特注というよりも特別なファンが作らせてプレゼントしたものと見るのがこの時点では妥当であろう。

 もう一つ、上海公司の前の持ち主については記述を伏せた。榛原茂樹以後の持ち主を特定する資料をもう一度探し直すには、その時点で時間がなさ過ぎたからである。

 ●榛原は梅蘭芳の親友だった
 榛原茂樹(1890-1963)は本名を波多野幹一といったが、その本名でまとめた『中国共産党史資料集成』や『中国国民党通史』は中国でも高い評価を得ているし、京劇にも非常な知識を有して中国の専門家をも凌駕する内容の『支那劇大観』『支那劇と其の名優』などを著した。さらに麻雀の研究でも大いなる足跡を残し、昭和4(1929)年に榛原茂樹の名前で上梓した『麻雀精通』は今なお名著として記憶される。

  麻雀牌についての記述としては、『麻雀の手ほどき』(1954年)にこう書いている。
 《……清麻雀*注3成立期は1850年代と推定される。それには物的証拠がある。わたくしが1864年製の牌をもっているからだ*注4 。 この牌には現在の牌にある東・南・西・北がなく、その代わりに江・村・斜・影というのがあり、中の代わりに暁、發の代わりに涼、白の代わりに僧・棋・待・月が一枚ずつ。一萬から九萬が一品から九品となっている。筒子・索子は現行のものと同様。各種四枚ずつ、計百三十六枚である。》

 この江村斜影の牌は彼の没後もずっと家に保管され、麻雀博物館に寄託されていた。
【注3】清麻雀  麻雀成立初期は花牌の多い絵合わせ的なゲームが行われていたが、浙江省寧波で陳魚門が遊戯法を整理して数理的な要素を多くした新しい遊び方を確立。以前の花麻雀と区別してこれを清麻雀と呼んだ。
【注4】近代麻雀の成立期は1865年前後とされてきており、この記述だとその歴史は10年ほど古かったことになる。榛原茂樹は日本麻雀黎明期の第一級の麻雀研究家であり注目に値するが、この牌が1864年製であるということを彼が断定したのは収納箱の蓋の裏に墨書された「甲子年二月に購入した」という文言からのようであり、これの解釈には異論もある。さらなる研究が待たれるところだ。

 その前に榛原は梅蘭芳の愛用牌についてもこう書き残している(『麻雀精通』1929年)。
《私が梅蘭芳の家で見たもの(麻雀牌)などは、梅が上海へ興行に行ったとき、わざわざ蘇州まで行って仕入れて来たという由緒つきのものだが、(梅蘭芳は)六十元だといっていた》(括弧内=名木)

 これが「遊龍戯鳳牌」であったかどうかはともかく、榛原が梅蘭芳から麻雀牌を贈られるべき雀友であり親友であったことのもう一つの証を紹介しよう。

 これまでほとんど紹介されなかったことだが、榛原は昭和7(1932)年、同仁会という日本の医学団体の啓蒙機関誌『同仁』(月刊)に「近代支那美少人録」と副題して、1月号と2月号の2号に亘り小説『梅蘭芳伝』を書いている。この機関誌には中国近代の巨星・郭沫若も小説や戯曲をたびたび発表しているくらいで、日中の文化交流に大きな地歩を築いた定期刊行物だった。

    (国立国会図書館マイクロフィルムより転写)

 その「梅蘭芳伝」の末尾に、彼はこう付して書いている。ほとんど膾炙されなかった文章だから、全文をここに引用させてもらおう(現代かな表記に変更。一部括弧内=筆者・名木)。

《……蘭芳の私的生活はきわめて平凡です。大抵午後二時頃起き(夜が遅いので恐ろしい寝坊です)、朝食と言おうか昼食といおうか、とにかく第一食を済ませるとすぐ客間に出る。色々なお客さんが詰めかけている。外交官、政治家、新聞記者、役者、写真屋(カメラマン)、千客万来である。外国の観光団などは、蘭芳を北京名所の一つくらいに心得て、遠慮なしにドシドシ押しかける。
 蘭芳がそれを愛想よくもてなすものだから、益々評判がよくなる。三時頃になると崑曲の師匠と武劇の師匠が来る。梅(蘭芳)の演る芝居の中に武劇がかったものもたくさんあって(「金山寺」「混元盒」など)、絶えずこのほうの練習もしておかなければならないのです。
 四時から五時頃になると馮幼薇(本名:耿光。中国銀行元総裁)、李釋戡、斉如山らの綴玉軒同志*注5が揃う。蘭芳のマネジャー格の姚玉英も毎日来る。
 これらの連中は木戸御免で、自分の家同様にしている。客間は外支折衷で、家具なんかも紫檀づくめで立派なものだが、綴玉軒同志はそこよりも書斎のほうが好きで、大抵そのほうに集まる。書斎には楢の木製のばかに大きいデスクが据えてあり、家具なんかも平凡な洋家具だが、連中にはそれが懐かしいらしい。なんとなればそれは幼薇が買ってやった北蘆草園の蕉宅にあったものだからだ。》
【注5】綴玉は梅蘭芳の筆名。綴玉軒は梅蘭芳の親しい後援会のことで、戯曲の執筆や出版も行っていた。

 さて、つづく文がまた興味深い。
《これらの連中が集まって、芝居のほうの用談が済むと、御多分に洩れず麻雀。夜は大抵宴会があり、十一時頃やっと舞台に上がる。大抵一時間ぐらいで済み、夜中の零時半ぐらいにハネる。また応酬(麻雀)がある。寝るのは大抵三時頃になる。
 いつか勘彌や嘉久子(帝劇所属の歌舞伎役者・13代守田勘彌や村田嘉久子)*注6(文末参照)が北京に来たとき、「某日午前一時半潔樽候教」という招待状を蘭芳からもらって、邦人の大部分は面食らってしまったが、ナニ、綴玉軒の連中にとっては、午前一時半は普通人の午後九時ぐらいなところなのだ。》

 梅蘭芳と握手する村田嘉久子

 この仲間(綴玉軒)に榛原茂樹が加わっていたことは当然で、京劇研究にも優れ麻雀技にも深く信頼できる彼にこそ、梅蘭芳手ずから名牌を贈ったことはまた当然の成り行きであったろう。日本にあって、榛原茂樹から日本麻雀発展に功績のあった斎藤茂勇にこの牌が渡ったこともまた当然と思われる。

 歴史の中で日中は深く大きな溝をつくってしまったかもしれないが、日中間には切れない絆で結ばれた友情もまた多くあった。それを今日に証明してみせるのが、まさにこの梅蘭芳の「遊龍戯鳳牌」なのである。(写真は1924年、梅蘭芳=左から3人目 に会った榛原茂樹=右端)
       
《……「芝草醴泉*注7、固より必ずしもこれを士大夫に求めざるべきなり」と、綴玉軒同志の一人李釋戡は、その『蘭芳小伝』を結んでいますが、私もこれに同意です。近代支那において、孫文の名は疑いなく第一位に置かれるべきでしょうが、蒋介石に至ってはまだ試験時代です。それに引き換え梅蘭芳が三十五歳の今日までの業績は、ともあれ歴史に残るだろうと思われます。》
 榛原はこの付記をこう結んだ。真の友を実にしっかりと見て評価している。
 【注7芝草醴泉: 芝草はめでたい神草、醴泉は甘い泉。転じて太平の世を示す。

 彼はその後も北京の梅蘭芳邸を何度か訪れているが、麻雀牌を貰ったのはこの小説が発表された1932年以降だったと私は推測する。小説『梅蘭芳伝』は(おそらく原稿枚数の関係で)単行本にはなっていないけれども、内容の濃い力作であり、小説の形で梅蘭芳を日本で紹介したのはこれが最初だった。

 蘭芳はその榛原に感謝し労をねぎらったに違いなく、雀友の彼が最も喜ぶだろう愛用牌を贈ったものと思われる。それが榛原が『麻雀精通』で書いた梅蘭芳の蘇州製の牌であった可能性も高いのだ。

 その後、日帝と軍部は中国での侵攻を進め、梅蘭芳は激しく抗日の活動に身を投じたため、二人の関係は絶たれる。

  彼らが再びあい見(まみ)えたのは、それから20年後(1956年)の冒頭に触れた梅蘭芳の三度目の来日公演のときだった。蘭芳62歳、榛原は66歳になっていて、二人の邂逅はそれが最後となった。その5年後に蘭芳は没し、その2年後に榛原も逝っている。日中が国交を回復するまでにはそれからさらに9年の歳月を要した。

【*注6】  そのころ日本政府は中国との外交に利するため日本の芸能使節団をさかんに派遣していたようで、当時の外交文書にこうある。

《帝劇俳優ノ鮮満支那巡業ニ関スル件

資料作成年月日: 大正15年06月12日 / 作成者: 外務省
  内容:第(■公信)号  
受信人名:安東、遼陽、奉天、長春、哈爾賓、天津、青島 上海、各公館長宛 件名:帝劇専属俳優ノ鮮満支那巡業ニ関スル件 

拝啓、時下益々御清祥奉賀 ■陳者帝国劇場専属男女俳優 守田勘彌村田嘉久子東日出子諸氏ノ一行 今般満鉄ノ招聘アリタルヲ機会ニ別紙ノ日程ニ依リ鮮満方面ニ止ラズ支那各地ニ於テ興行致スコトニ相成シ処 右ハ梅蘭芳、緑牡丹、小揚月■等支那俳優ノ本邦来演ト同様 日支両国ノ芸術交歓上■当有意義ナル企ニシテ此方面ヨリ日支両国ノ接近諒解ニ資スル■ ■鮮カラザルト■■致居ルモ何分ニモ右諸氏トシテハ始メテノ企ノ事ニテモ■ノ節ハ然ベク御垂教ヲ得度■■便宜御供与■仰度 此段御依頼旁得貴意■ 敬具
大正15年6月14日

在安東領事西澤義徴殿 在遼陽領事薮野義光殿》
※下線は筆者 ■は判読不能文字

                                 〔了〕

【付記】 榛原茂樹(波多野乾一)の孫娘・波多野眞矢さんは現在、日本の京劇研究の第一人者として知られ、複数の大学で中国文学を教授している。
     文/名木宏之〔2015年7月初出稿 に加筆〕


  麻雀牌のものがたり⑩  

 宮廷献上用に作られた

 1索 翡翠牌 


 ●装飾としては面白くても
    この牌を最初に見たとき、また凄い牌があったものだなと思ったのはもちろんだが、それとは別に何かしら心に引っかかるものがあった。
    見てのとおりの翡翠(ひすい)でつくられた超高級牌(上写真/複写)である。すばらしいには違いない。だが、どうして麻雀牌が翡翠製なのか、釈然としない思いも胸の底に湧いてくる。
 
    私は麻雀博物館創設に初期から参加しており、この牌が蒐集されたころにはラスト・エンペラーの「皇帝御牌」をはじめ多くの名牌・絶品がすでに収蔵されていた。それで、眼が肥えたというか、驕ったというか、相当な代物が入ってきても以前ほどには心が動かなくなっていた。そういった慣れもあっただろう。これを見たとき、ふん、という反感のような思いを感じたのは自分でも意外だった。
 
    蒐集時の触書きには〈中国・広東の豪商が清朝末期に宮廷献上用に作らせたもの〉とある。だからわざわざ翡翠で作ったのか、とは納得できても、その仕上がり具合に不満が残るのだ。
 
    麻雀は手牌も山を積むのもすべて牌の裏を見せて、その牌が何であるかは分からない。牌背に傷などがついていると、その傷を記憶することでその牌が何であるか分かってしまうので、そういう牌を〈ガン牌*〉、つまり見分けのできる牌として、正式な競技では取り除くようにする。
      ガン牌――どういう文字を当てるのか確かめていない。ガンを付けるの「眼」であろうが、「玩」、「翫」、「贋」、「嵌」……いろいろ考えられる。
 
    ところが、この翡翠牌は11牌の牌背の模様が少しずつ全部違っていて、注意力のあるプレーヤーなら簡単に識別できてしまうのだ。
 
   「これではガン牌になってしまうよね」
    私は鈴木知志(故人・麻雀博物館元副館長)にそれとなく言ってみた。
   「うむ、そうだね。わかってしまうね、牌が」
    彼も私に近い思いを持っていたらしいが、あっさり結論づけるように言った。「実用というより、記念品のようなものなんじゃないのかな」
 
    なるほどそうかも知れない。が、それでも私は彼の見解に簡単にうなずくことはできなかった。お飾りに作られただけだったら、この牌はそれほどありがたいものではないのではないか。装飾品としておもしろいものではあっても、実用性がなければ、価値ある文化財とはいえないだろう。
    牌は、その時点で分かっていることだけを解説につけて、収蔵後まもなく展示された。それを現場で見るたびに、私の胸の中には蟠(わだかま)りが澱のように沈殿した。

 ●宮中麻雀は片八百長!?

    1か月も経ったころ、私は別のことで西太后を調べていて、面白い資料に出会った。清代(1616~1912)の稗史書『清稗類鈔』(1917年、徐珂編)の賭博篇に、「孝欽后、麻雀を好む」という見出しでこう書かれていたのだ。

 《孝欽后は諸侯と親族を呼んで一緒に麻雀をするのを好んだ。牌を出すとき、必ず侍従が後ろでいろんなポーズをする。たとえば、孝欽后はいつも「中・發・白」の対(2枚)をもらえるが、そのとき一緒に麻雀をやる人たちは必ず中・發・白のいずれかを出して孝欽后に勝たせる。孝欽后が勝つと皆でお祝いをし、叩頭(頭を地につけて拝礼すること)し、その支払金を孝欽后に差し上げる。負けが重なると、償還がなければ、また叩頭して得がたい職位への就任を頼む。その職位による所得は(孝欽后との)麻雀の負け金より数十倍もあることが想像できるだろう……》(括弧内および下線=筆者)
    孝欽后とは皇太后であった西太后の謚名(おくりな)だが、当時の宮中ではなんとまあ大変な麻雀をやっていたものである。  
    三元牌が自動的に入るなら、大三元の大役もいとも簡単にできてしまう。西太后を囲んで他3人が彼女を勝たせるために各々片八百長をやるわけで、それが昇進につながったというのだから、清朝末期というのはどうしようもない時代ではあった。〈諸侯と親族を呼んで〉とあり、相手をしたのは清朝のトップ官僚や皇族ということなのだ。西太后が没してまもなく清朝は崩壊するが、トップがこれでは当然というものだろう。
 
    『清稗類鈔』は稗史であり、正史を綴ったものとはされていない。書かれていることの典拠が示されていないので、正確性において難のある史書ではあるが、だからといって全く信用できないというものでもまたなかろう。
     私はその記述を読んで、翡翠牌のことにはっと思い当たった。そうか、片八百長が当たり前なら……牌はガン牌のほうがかえって都合がよかったんじゃないか。どこにどの牌があるか分かったほうが、片八百長はやりやすいはずだ。
    ということは、この牌は宮中で〈実用〉に供するために作られたと考えてもいいことになる。私のこの牌に対する興味はにわかに高まった。

 ●なぜ宮廷に献上されなかったか ?!

    牌の出自についてもう一度、調べなおしてみる気になり、管理ノートを改めて確認する。と、あらましこんなことが分かった。

    清朝末期に広東の豪商が清朝宮廷への献上品として特注した、というのは前に書いたとおり。ところが、〈事情があって宮中には納められず、その豪商が持ちつづけたもの〉だというのだ。
    事情があって、とはどういうことなのか。宮中に献上しようと思って作らせたのだけれど、贈る直前になって惜しくなったか。あるいは贈る必要がなくなったか。
 
    清朝末期は、これはこのシリーズで何度も書いたことだが、滅茶苦茶な賄賂社会であった。宮・官・民、あらゆるところで贈収賄がくり広げられ、賄賂なくして昇進や利益を望むべくもない時代だった。広東の件(くだん)の豪商が自分の事業を拡大するために宮中に取り入ろうとしたのは当然で、この翡翠牌のほかにもいろいろと献上を重ねたに違いない。
    広東というのは、広東省の広い地域のことではなく、現在の広州市のことを指している。清朝末期、広東(広州)はいち早く開港して、対外貿易を扱う大富豪があまた出現した。翡翠牌の豪商もそういった一人であったろう。
 
    献上品として作らせながら、彼はではなぜ宮中に納めずこれを持ち続けたのか。その疑問の前に、これが本当に宮中献上の目的で作られたのかどうか、ということが気になった。最初からそのつもりがなかったら話にならないし、この牌の蒐集時の触れ込みにうそが加えられていることも考えられなくはない。
 
    牌をよく見るとしかし、それが杞憂であることが分かる。
    筒子牌に陰陽太極図を配しているのは他の民間麻雀牌にはまずないことだし、1索には清朝皇帝の象徴である龍があしらわれている。1索は一般に虫か鳥か場合によっては魚や竹の子といった変り種もあるが、皇帝の龍とは畏れ多い。花牌にも「富貴長在」「昇官發財」と、宮中に見合った文言が使われている。
    このような謂れに重みを持った牌で民間人が麻雀を愉しむとは思われないので、これはやはり触れ込みどおり宮中用に作られたものと思っていいだろう。
 
    問題は、その1索の龍である。この龍の図案はちょっと軽すぎはしないか。滑稽ともいえる不細工な龍だ。
 この龍ではかえって不敬になる、と豪商氏は思い献上をためらった――真相は案外そのあたりにあったのではないかと私は思う。
 
    これが作られたのはおそらく20世紀のはじめで、中国は混沌としていた時期だ。1908年には西太后が亡くなり、同年、彼女の遺言どおり清朝最期の皇帝として溥儀が宣統帝に即位するが、4年後の1912年には清朝は崩壊する。牌が出来上がったときに宮中に贈るべき相手がいなくなっていた、ということも考えられなくはない。

 ●西太后に贈られるものだった!?
    どうして翡翠で麻雀牌を作ろうとしたのか。その疑問に対する答えは簡単に見つかった。その時代、広東が中国の、というより世界の翡翠の集散地だったからである。

    翡翠は中国では古来、玉として、金と並び宝石の最高位にランクされてきた。玉というのはもともと美しい宝石類の総称であったが、なかでも翡翠が珍重され、玉といえば翡翠のことを指すようになった。
 
    石自体もさりながら、翡翠はその文字も美しい。元はカワセミのことだという。後にミャンマーで緑色の翡翠硬玉が発見されるまで、中国では新疆ウイグル自治区のホータンで産する軟玉を専らとし、白地に緑色と緋色が混じる石をその最高級品とした。すなわちカワセミの羽の色で、それが語源になったということだ。
 
    18世紀にミャンマー北部で翡翠硬玉が大量に発見されると、華僑がすぐにその権利を独占し、船便で広東に送った。開港された広東からは外国に向けて翡翠の工芸品が輸出され、それがヨーロッパで大人気となったから、清朝末期の広東には翡翠成金が簇出することになる。件の豪商はそういった翡翠成金であったかもしれない。 
                                              
     さて、では彼はこれを宮中の誰に贈ろうとしていたのだろうか。高級官吏なのか、皇族なのか、いったい誰だったのだろう。    

    私は少しずつ感じていたことだったが、西太に贈られるはずではなかったか、という思いにふと強く駆られて、胸の奥がくっとなった。
    献上先を西太后とするのは、この牌の出自を高めるうえで最も面白く、かつ安易な発想でもあろうけど、しかしあり得ない話ではない。いやそれどころか、清朝末期の宮中の権力構造からいって、本線ともいうべき相手ではないか。
 1索の龍は皇帝の象徴ではあるけれども、西太后は皇帝に優る権威・権力を有していたのだから不都合はなかろう。(下写真は晩年の西太后/ウィキペディア)


 彼女が無類の麻雀好きであったことは古書『清稗類鈔』が記述したとおり。また、西太后の筆頭宦官であった李連英の記録などによれば、彼女は大変な翡翠マニアでもあった。皇太后として絶対の権力を持ち、麻雀好きで翡翠マニアの彼女にこそ、この翡翠牌は献上されるべきではなかったか。確証はないながらも、私はこの推理を気に入っている。
 
    翡翠は英語でジェイド(jade)といい、状態のいい高品質の翡翠を西太后にちなんで〈インペリアル・ジェイド〉という。
                         文/名木宏之(初出=2007年3月)
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